『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』

f:id:Otayuri:20140624210122j:plain

▼作者:過酸化水素ストリキニーネ
▼サークル:過酸化ストリキニーネ/Tie Story
▼発表形態:同人誌 2012年8月11日発行
▼ジャンル:恋愛

 

 

 『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』を読んだ。さっそくレビューを書こうと思ったけど、この作品については先行するレビューがあるので、まずはそれを確認。
 IRさんは物語の筋を手際よく紹介したあと、まとめとして「この作品の美点について、こいしのキャラクター性について、既成の古明地こいし像から一歩進めて、新しい表現をしているように思う。」と書いている。この小説はこいしちゃんを良く描いた物語であって、くらべると、さとり様のキャラクターについてはじゅうぶんに描かれなかったようである、と。

 

 評者の読みは、それとちょっとちがう。こいしちゃんが可愛いのはもちろんだけど、でもむしろさとり様のほうの描かれ方にこそこの小説の美点があると思っている。別にさとり様とこいしちゃんとどちらのほうが良く書けているか、登場人物としてどちらにより重みがあるか、という比較をしたいわけじゃない。でも、この小説がわれわれを感動させる一番大きな要素は、さとり様の変化を描いている部分にあると思っている。
 それについていまからちょっと書く。

 

 IRさんのレビューで、物語のあらすじはすでに書かれているので、ここでまた順を追ってくわしく語ることはしない。ただ原作も前回のレビューも読んでいない人に向けてごくかんたんに説明すると、「地底の裕福な家に生まれたさとり様があるとき奴隷市場でひとりの少女を買ってくる。さとり様はその少女に名前をつけ、古明地性を名乗らせ、妹として可愛がるが、やがて奴隷時代の無理がたたってこいしちゃんは死んでしまう」というのが『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』のストーリーだ。
 こいしちゃんとさとり様の出会いのシーンで、いきなりこいしちゃんが奴隷商人にフェラチオさせられてるあたり、よい子には読ませられないR18作品の面目躍如である。

 

 売り物は、ディーラーと思しき男の性器をその小さい口に咥え込んで、健気にも一生懸命奉仕していました。首に絞め付けるほどに食い込んだ首輪に左手をやりながら、苦しそうな顔をしながらも必死に口を動かすのです。

(p.12)

 

 こういうビビッドな場面が小説のそこかしこにちりばめられていて、われわれの興味をひきつけるが、でもIRさんも書いているとおり、この小説の大半は登場人物の心情描写に費やされており、力点もあきらかにそこにある。
 心情描写、というと、ちょっとちがうかもしれない。というより、評者は心情描写というのが正確にどういうのを指すのかいまいちよくわかっていないので――なので、わかりやすく言い換えると、「一人称による自分語りの自己分析」でこの小説はできあがっている。

 

 「自分語りの自己分析」というと、ちょっと印象が悪いかもしれない。たいていの場合、自分のことばかり考え、しゃべる人間はひどくうざったいだろう。でも、それを他人に向けて言うかどうかはともかく、自分について考えることをまったくしない、という人間はいない。
 誰もがそれをやっている。頭の中で、自分はこういう人間で、こういうことが好きで、ああいうことは嫌いで、こういうことをされたときにはこんなふうに反応するタイプで、だからあのときこうしたのだ、あの行動には自分としてこういう意味があったのだ――なんてことを考えている。それが役に立つのかどうかはわからない。自分では正しく客観的に自分のことを見れているつもりでいても、はたから見れば見当外れの、身勝手な理屈にすぎず、それはただの言い訳で、自分でもあとからそう気付いて恥ずかしくなる。そういう経験を誰もがしている。けれど、われわれはそれをやめられない。みんな結局、自分のことが好きで、だからそういうふうにぐちぐち自分のことを考えるのは、はっきりとした快楽だからだ。
 『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』は、そういう自己分析の快楽に満ちている。さとり様が、こいしちゃんが、お燐が、自分の気持ちを長々と語るとき、われわれはそこに自分自身を見ている。過酸化水素ストリキニーネさんは、そういうことを実にすっきりと、上手に書いてくれる。そこに過酸化先生の作家性があるし、人気の秘密があるんだろう。*1

 

 けれど、「自分のこと」ばかり書いていても、いわゆるみんなが好きな「お話」にはならない。物語には展開というものがある。そして展開というのは、誰かが――登場人物が、何かの行動をすることによって引き起こされる。
 この小説の中で、「何かする」のは、ただひとり、さとり様だけである。そのさとり様がする行動もふたつだけ。こいしちゃんを救い――そして、殺す。
 このふたつだけの行動がこの小説の骨子となり、自分語りの快楽のほかにもうひとつ、われわれを感動させるある普遍的なものに触れる。
 それは評者の考えでは、「コミュニケーション」の本質みたいなものだ。

 

 コミュニケーションとはなんだろう? 辞書をひくと、「互いに意思や感情、情報を伝達しあうこと」とある。たとえば誰かに目的地までの道を聞いて、「それはここをまっすぐいって道路をわたって右に行ってすぐのところですよ。ゲーセンの奥にあるのではじめはすごくわかりにくいけど」「ファインセンキュー」という会話をしたらそれはコミュニケーションである。
 とついつい指が動くままに書いてしまったがここでは辞書的な意味ではなくて、もっとせまい意味で使いたい。

 

 「コミュニケーション」には痛みが伴う。

 

 たとえば、誰かが何かを言って、周りのみんなが「うんうん」「そうだよねー」「だよねー」と言ってるだけの状態、というのは、コミュニケーションとは呼ばない。それはただのなあなあの関係というか、アイドルとファンの関係というか、教祖と信者の関係というか、共産党の幹部と一般党員の関係であるだろう。
 機動武闘伝Gガンダムを見ればわかるとおり、友達とは基本的に拳で語り合う関係である。「お前が一度に十発のパンチを撃つならば、俺は十体のガンダムになって受け止める!」もしくは「いまの私はネオドイツの女」。これがコミュニケーションの基本である。

 

 また指がすべるままに書いてしまったが、つまるところ「コミュニケーション」にはフィードバックがあり、それは自分に都合が良い、気持ちが良いだけのものではない、ということ。コミュニケーションを「行動」と読み換えてもいい。何かをすればきっと何かの反応があり、そしてそれに伴う変化がある。
 『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』で、自分から行動を起こし、そしてその自分の行動による変化を引き受けたのは、ただひとりさとり様だけだった。

 

 たとえばこいしちゃんを見てみよう。こいしちゃんはほんとうに、非の打ち所のないほど、完璧に、かわいそうな女の子だ。生まれたときから奴隷の身で、少し成長するとすぐに性奴隷にされ、薬物漬けにされ、あまつさえ主人の気まぐれで右手を切断されてしまう。最後にさとり様に拾われて、つかの間平穏な暮らしを手に入れるが、やがて不可避の死の運命にとらわれる。
 生まれてから死ぬまで、こいしちゃん自身には何も選択する余地がなかった。ただ与えられたものを受け止め、反応を返すだけだった。性奴隷の生活に耐え、次いでさとり様の愛情に愛情を返し、そして死を甘受する。こいしちゃんがさとり様へ向ける愛情は盲目的なものであり、意地悪なことを言えば、それも「他に選択肢がなかったから」だと言えるだろう。
 こいしちゃんはさとり様を愛するより他に生きるすべがなかった。他の選択肢は、はじめから彼女には閉ざされていた。
 われわれがこいしちゃんを愛する理由はここにある。つまり、こいしちゃんは自発的に何もしていないし、できる状況になかった。こいしちゃんは文字通りの意味で、何もできない女の子だった。だからもし、彼女が純粋に見えたとしたら、それは通常誰かが生きるにあたってかならずあるべき選択/行動を何もしていないからだ。

 

 当たり前のことだが、何もしなければ、何の結果も得られない。何かで成功することもないし、何かで失敗することもない。自分の行動の責任を自分で引き受けることがない。楽しいことも、苦しいことも、ぜんぶ自分の責任ではない。そういう意味で、こいしちゃんは赤ちゃんのような存在である。それがわれわれには無垢に見える。
 だから私たちは、こいしちゃんを赤ちゃんを見るように、たよりなく、弱く、保護すべきものとして見るのだし、彼女の美しさは、そういう人間的な重みから解き放たれた美術品のような美しさであるといえる。物語の最後で、こいしちゃんは死んでしまうが、それは彼女のそういうキャラクターから考えると、不可避の結末だったろう。無垢なものは無垢なままに死んでいかなければ、その美しさを保存できない。だからこいしちゃんが死ぬラストは悲しいが、われわれはそれをある種の満足感をもって読むことになる。

 

 対して、お燐である。いままでさとり様とこいしちゃんのことばかり書いていたのでなんだけど、お燐ちゃんもこの物語の中ではそうとうに重要なキャラクターだ。どういう奴かというと、こいしちゃんと同じくさとり様に拾われたので、さとり様を愛しているんだが、さとり様は自分のことを愛してくれない、あの人のかたくなな心を自分では溶かすことができない、そうこうしている間にご主人様にはこいしちゃんという特別な存在ができてしまった、もう、お燐、泣いちゃう! というひじょうに乙女チックなキャラクターである。

 

 お燐についても、けっきょくのところ、片思いをしたことがない奴や、失恋をしたことがない読者というのはいないわけだから(いたとしたら幸せな人である)、われわれは自分自身をそれに重ねて読む。お燐ちゃんのひとり語りは自分自身のせつない気持ちを思い出させてくれるようでとても気持ちいい――でも、ちょっと引いて考えてみると、さとり様のことが好きならちゃんとそうアピールすべきだし、もっと気を引く努力をするべきだ。お燐はまったくそういうことをしている様子がない。ただ、めそめそと「愛されないのはつらいなあ」なんて言ってるだけ。
 お燐はお燐で、やっぱり「何もしない」キャラなのだ。でも、お燐の場合はこいしちゃんとちがって、じゅうぶん、自分からなにかできる環境がある。その気になれば、きちんとさとり様に告白してフラれることもできるし、そんなにつらいつらいと言うならば、思い切って地霊殿を出て、さとり様を忘れることもできるだろう。でも、そうしない。そしてお燐は、こいしちゃんとちがって死ぬこともない。
 この物語において、お燐は悲劇のヒロインになれず、かといって自分から物語を動かす主人公にもなれない、傍観者の役割をふられている。そしてそれは、失恋したからっていちいち死ぬわけにはいかず、かといって簡単に思い切れもせず、いつまでもくよくよぐじぐじと悩んでいる、私たち自身の姿でもある。*2


 というふうに、こいしちゃんとお燐はまったくちがったキャラクターであるわけだが、「何もしない」という点では共通している。そこで行動する女――評者の読みでは正しくこの小説の主人公である――さとり様の登場である。
 前述のとおり、さとり様はこいしちゃんを拾い、そして殺す。それはそもそものこの物語の発端と、そして結末になる重要な行動だ。では、なぜさとり様はこいしちゃんを拾い、愛し、そして殺すのだろうか。
 「#01 サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ」で、さとり様は(例によって長々とした自己分析で)こう語る。

 

 けれどその瞳は、間違いなく私の奥深くにある某かを強く揺さぶったのです。
 ――ああ、あれを飼いたい!
 私は心の中で叫びました。あれなら私は一生飼えると思ったのです。途中で飽きて殺す事もなく、一生勝手に朽ち果てるまで飼うことができる。だって、あれの心を私は読むことができないのですから。
 なんて素敵なのでしょう! 今まで飼ってきたペットを不完全な機械(ガラクタ)と称するなら、あの売り物は間違いなく完全な生物(ごみくず)なのです。しかしそのごみ屑は、当たり前のように生きているのでした。ごみ屑の分際で!
 心さえ見えない、汚い生き物。ごみ屑ですから、不規則(エラー)も沢山あるでしょう。思い通りにいかない事もままあるでしょう。そしてそれらは、全く私には関知できないのです。それはなんて素晴らしい存在でしょうか。
 私はそんな存在を初めて知りました。一生現れぬだろうと、むしろそんな存在を想定してさえいませんでした。
 心が読めても理解できぬ事はあります。心が読めても興味がない事はあります。心が読めても意味のない事もあります。けれど、心が読めない事はただの一度もありませんでした。私はその時初めて、覚以外の生物たちの気持ちを理解したような気がしました。
 あぁ、なんて惨めで、美しい光景だろう!

(pp.13-14)

  

 ようするに、こいしちゃんの心を読めないから好きになった、ということである。少なくとも最初のきっかけはそうだった。それがいつのまにか、彼女を愛し、「愛おしくてしょうがない」とまで言うようになり――このあたりを、いつのまにか、というふうにぼかして明確に書いていないところが、この小説の物足りないところであるし、また美点でもあると思うんだけど――さとり様は変わっていく。*3
 さとり様はこいしちゃんを拾い、その行動の結果として、自分自身が変わっていくことを余儀なくされる。そして戸惑いつつもそれを受け入れていく。『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』はそういう話だ。
 最後から二番目の章、「#06 MeltDown / Garbage」では、さとり様はこんなふうになっている。

 

 長い夢を見ていた。
 夢の中の私は、なんでも自分の思い通りにできて、誰をも従えて、自分のやりたい事だけをやって、王様みたいにふんぞり返って君臨していた。
 私の我侭に、みんなが付いてきてくれた。
 でも、もう、そんな夢からは醒めなくちゃいけない。夢の中では生きていけないのだ。
 私は私の答えを見つけたから、この優しい夢から出て行って、苦しくても現実を踏みしめて生きていかなくちゃいけない。
 ずっと、ありがとう。私を守ってくれて。
 ありがとう、私の夢(こいし)。

(p.76)

  

 誰にとってもそうであるように、自分が変わる、というのは簡単なことじゃない。それは痛みを伴う。自分がいままで認めていなかったことを、認めざるをえない立場に追い込まれることは、つらくて苦しくて、不愉快なことだ。
 でも、そういう体験を、私たちはやっぱり求めているんじゃないだろうか。というか、私たちが他人と触れ合うのは、つまるところそれが目的なんじゃないだろうか?
 他者との触れ合いによって最終的には自分自身が変わること。それが「コミュニケーション」の本質だ。そしてそれは愛とか恋とか、家族とかを越えて、もっと普遍的なものに触れているように思う。

 

 さとり様は最後に、こいしちゃんを殺す決断を下す。それはつまり、最初にこいしちゃんを拾った自分自身の行動に対する結果を引き受けた、ということだ。さとり様は自分の行動の結果として、自分自身が変わってしまったことを受け入れる。こいしちゃんを殺し、自分が彼女の命のすべてを受け入れる存在であることをはっきりと示す。
 そしてさとり様はこいしちゃんの「姉」になる。まとめよう。評者の読みでは、『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』は、さとり様がこいしちゃんの姉になるまでのさとり様の変化を描いた話、といえる。
 ロマンチックに言い換えると、自分のことをあまり好きじゃない女の子が(自分自身をあまり高く評価していない女の子が)恋をして、愛されて、自分自身を変える話。その変わってしまった自分を肯定できるようになる話。そういうふうに、評者はこの本を読みました。

 

 ……ちょっと自分の読みに話を引き寄せすぎたかもしれない。せっかくなので、最後にちょっとだけ悪口を言うと、そもそも性奴隷で腕を切り落とされて美しくて惨めなこいしちゃん、みたいなのはヴィジュアル系の歌詞みたいでチープだな、と思わないでもないし、「箱庭でそっと窒息していく私をくびり殺してよ。」みたいなフレーズも冷静になると恥ずかしい……いや、それが雰囲気に合ってるので、読んでるときは気にならないんだけど。

 

 

 

*1:と調子こいて書いたけども、評者は過酸化水素ストリキニーネさんの本を読みはじめて日が浅いため、「そうじゃないぞ!」というご意見お待ちしております。

*2:お燐については、「見返りが欲しくて誰かを好きになる奴なんていない。いたら、そいつは本当の意味で好きになるってことを知らないんだ」とかいう台詞もあって、つまりさとり様が幸せならばそれでいい、それがあたいの愛の形なんだ、みたいなことを言うんだけど、でもそんなのはただの強がりだと思うなあ。

*3:「人が人を愛しはじめる瞬間」なんて、通常はっきりとあるわけではないし、明確な理由があるわけでもないだろう。だから「いつのまにか」で雰囲気で書いちゃうことは正しいとも言えるんだけど、フィクションの中でくらいそういうダイナミックな場面を読みたかったな、と思うのもたしかなことである。ないものねだりではあるんだけど。