『秘封倶楽部とダーウィンの悪魔』

▼作者:えぬじぃ氏
▼発表形態:東方創想話
▼サイズ:52.39KB
▼ジャンル:SF

 

 

 単刀直入に本作を表現するなら、SFディストピア小説となろうか。


 実際のところ、アプローチの方向性としては数あれど、東方projectの世界観をアンチ・ユートピア文学、ディストピア文学としての文脈で読み解いた作品は決して珍しくはない。元来、幻想郷という世界自体が妖怪による人間牧場とも取れるのだし、精神のありようによって神や妖怪を具現化するということは、意思の力で現実を歪めることができるとも解釈できる。御阿礼が編纂を請け負う幻想郷縁起は幻想郷の創造者である八雲紫による“検閲”が加わっているともされ、どことなく全体主義の香りを感じさせる。穿ち過ぎと言えば穿ち過ぎの見方ではあるのだろうが、すでに幾つかのディストピア系二次創作が世に出ているという事実そのものが、東方の世界観はディストピアとして解釈されるだけの素地があるということの傍証とも言える。

 

 そのような潮流の中からひとつ例示するなら――幻想郷の裏面を描いたulea氏の一連の作品群、とりわけ、秘封倶楽部の属する外部世界の繁栄こそが幻想郷を地獄たらしめるという悲惨な現実を描いた『繁栄』という一品は、エリスンの『世界の中心で愛を叫んだけもの』のクロスホエンを思わせる発想の掌編ながら、同時に、東方の原作設定にも忠実な作品世界を描出しているという点で、まさにこの手の系統の白眉と言っても良いだろう。

 

 斯様にディストピアとして読み解き得る幻想郷という世界だけれども、さらに直接的な“ユートピア”、その実はアンチ・ユートピアであるのが蓮子とメリーの暮らす秘封倶楽部の世界であろう。少子化による人工調整、合成食品の実用化、衰退しつつある地方の風景をカレイドスクリーンで覆い隠すヒロシゲ五十三号、穏やかな世界の穏やかな人々……しかし明言こそされていないながら、そこにあるのは一歩間違えれば『素晴らしい新世界』式の“幸福な地獄”である。

 

 アンチ・ユートピアディストピアを中心テーマとして作劇を行う意図は、多くは、半ば極端な誇張と戯画化によって現実と鏡映しの世界を物語の世界に描き、現実世界の制度や文明、政治体制への批判を行うことだろう。同時に、それらを物語として成立させるために常に必要な者は、落伍者たる主人公である。ユートピアであるはずの社会に馴染めず、その隠された非人間性、隠蔽された残虐性を見抜くことができる程の眼力を持つ主人公が居なければ、いかなるユートピアもその虚構性を暴かれない。

 

 そのような観点からすれば、秘封倶楽部、とりわけ宇佐見蓮子というキャラクターはうってつけだ。何せ、彼女はとにかく自身を取り巻く幸福な世界にはすっかり倦んでいる。何もかもが合成とバーチャルで済まされる科学世紀から逃げ出したい。その衝動は、彼女が相棒のマエリベリー・ハーンと共に結界暴きに走る動機として多くの作品で描かれる。

 

 そして本作でもまた、蓮子のそのような衝動はとても端的な由来を持つ。
 合成食品やバーチャルでばかり行われる科学世紀の食事にすっかり嫌気が差してしまった蓮子は、メリーを誘って幻想郷へと長期旅行に出かける、というのが導入である。失われた存在の棲む幻想郷なら合成やバーチャルではない『本物』の食事が楽しめるだろうし、何より妖精や妖怪、神様たちと直に接触することで、秘封倶楽部としての活動にプラスになるかもしれないと思ってのことだ。かくして蓮子とメリーは、幻想郷で売り払って旅費の足しにしようと用意した大量の砂糖をお供に、意気揚々と出発する。

 

 二人は博麗霊夢東風谷早苗と出会い、念願だった天然ものの食事に舌鼓を打ち、人里の洋菓子屋でアルバイトまで始める。充実した日々は瞬く間に過ぎ去り、そのうち蓮子は『本物』だけがある幻想郷への移住を夢見るが、あるとき彼女の身体に重大な異変が起きる。突如として原因不明の病に罹り、病床に伏せることを余儀なくされてしまったのだ。病状が日増しに悪化し、診察を依頼された八意永琳でさえも病因の特定に手間取るなか、やがてメリーも蓮子と同じ症状を呈し始める。このまま死んでしまうのだろうかと絶望したそのとき、永琳の口から告げられた病名は驚くべきものであった。

 

 それは『栄養失調』だというのである。

 

 何と、科学世紀の合成食品に身体が適応してしまっている蓮子とメリーは、幻想郷で手に入る食品だけでは賄いきれない“未知のビタミン”が欠乏し、栄養が不足してしまったというのだ。つまり、その“未知のビタミン”を含有する合成食品を食べなければ、栄養失調から回復する見込みはなく、このまま死んでしまうということである。ここに至っては幻想郷に移住する望みは絶たれ、蓮子とメリーは元の世界に帰還するのだった……。

 

 率直に言えば――実に惚れ惚れとするようなプロットと言う他はない。
 先に挙げたulea氏の『繁栄』とは、秘封倶楽部という共通のガジェットを用いながらも、まったく異なる方向へと傑出している。それは、人類の幸福のための技術そのものが、内向きにディストピアを形成し続けているという皮肉な結末である。あらゆる不幸と絶望と苦役を世界の外側に押しつけることで成立する『繁栄』のユートピア観とは、明確に色を異にしているものだ。

 

 その“違い”の根本を、蓮子は『ダーウィンの悪魔』と呼ぶ。
 自然淘汰と適者生存というダーウィニズムの根本原理が累積された結果、人間は科学技術が満ちる現在の環境に適応したが、同時に、技術の存在しない世界へ適応する能力を喪失してしまったというのである。

 

 これは、一見するとディストピアとは言いがたい視点であるかもしれない。

 

 作者のえぬじぃ氏も、もしかしたらそこまで悲観的に科学世紀を捉えてはいないのではないかとも思う。けれどディストピアとして様々な物語に描かれる重要な要素、それは共同体への無条件の帰属と奉仕であり、同時に『多様性の喪失』『個人の選択権の剥奪』である。このふたつを、図らずもというべきか、本作は“技術に慣らされることによる人間の進化と退化”というテーマを通して描くことに成功している。合成食品に適応した身体の持ち主である蓮子とメリーは、食事という人間の生存の根幹に関わる行為において、自己の決定権、選択権を既にして剥奪されていたのだ。科学世紀という世界に生きる時点で、おそらくはすべての人々が、知らず知らずのうちに付与されているであろうことを示唆する、この絶望的な結論は、共同体への否応なしの帰属を強いるテクノロジーの牢獄だ。科学世紀の人々は、この牢獄から逃げ出すことは決してできない。その時点で、彼らの人間性は徹底的に文明からの管理の下に存在している。

 

 むろん、そのような結論を安易な技術批判、文明批判と見ることももちろんできるだろうし、行き過ぎた自然崇拝は荒唐無稽な代替医療などに繋がる分、むしろ害悪であるのも事実だ。けれどこの作品の本質は、やはり『技術に囲い込まれた無自覚で内向きのディストピア』であると、強くそう感じるのである。

 

 文明や共同体の恩恵なるものが、むしろ生の多様性、選択権を抑圧し、技術が知らぬ間にそれを後押ししてしまう社会は、幸福な地獄と呼ぶより他にない。自然淘汰や適者生存も、そしてその果てに人類が獲得したあらゆるテクノロジーも、自己の生存と幸福のために連綿と積み上げられてきた財産だ。けれど、その『管理』を得なければ生存できないということが明らかになってしまった瞬間から、テクノロジーは個人の選択権を奪い去る。少なくともこの物語の中では科学世紀の人々に、自己の奴隷であることを無自覚に強要する。人々はその管理下で、自分たちが自由意思の一端を剥奪されていることに気づかないまま生き続けるのである。

 

 それこそが誰にも気づかれないまま成立するディストピアであり、蓮子とメリーが垣間見た『ダーウィンの悪魔』の実相のひとつではないだろうか。