『世界の果てに君と』

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▼作者:藍田真琴氏
▼発表形態:同人誌
▼判型:新書サイズ 285p
▼ジャンル:エロティック グロテスク 百合
▼参考URL:[R-18]「例大祭個人誌サンプル」/「藍田」の小説 [pixiv]

 

 

 

 僕は大抵レビューを書く時、作品を細かく分解したものを作る。個人的なメモであるが、時系列を作り、行動と変化を書き、気付いたことをメモしてゆく作業をする。今回もレビューするにあたって、作品の分解作業をしていたが、やめた。今回の作品はそういうことではないだろう、という気分がしたのである。
 今回のレビューは細かいことは言いっこなしに、大雑把に言いたいことを言おうと思う。


 この作品を語るに当たってまず誰もが気付くのは、本文の多くを占めるエロティック、またグロテスクな表現だろう。実に本文の八割を占めるのではないかと思うほどである。少なく見積もっても五割は超えている。時に痛みを伴うものであったり、血を流したり、精神的な苦痛を感じずにはいられない部分も多くあるので、グロテスクという表現の感じ方は人それぞれだが、まあ一般的に見てグロテスクな表現が多く含まれていると言うべきだろう。少なくとも、現実で実際目にすれば、とても直視することはできないだろう、文章の暴力とでも言うべき表現が、この作品にはとても多く含まれている。
 だがそれを与える、あるいは甘んじて受けるということに、悪意が殆ど含まれていないのは、特筆するべきだろうと思う。大抵の場合、それは愛情の故である。一部を除いて……例えばアリスの過去における、いじめの描写などには、愛情があるとは思えない。だが、それ以外は、殆ど愛情の故である。物語の始めで、紫は霊夢に過剰に過ぎる愛情を示したために霊夢は離れてゆき、やがて精神の均衡を失って物語から退場してしまう。あるいは、アリスは魔理沙のために、天狗の拷問を受けたりする。
 また、作品のうちには、物語の展開として、愛する、大切に思うが故の行き違いが多く起こる。魔理沙霊夢を憎むようになった原因の多くが行き違いのためである。
この作品では、愛するが故に行き過ぎた愛情を示してしまったり、あるいは行き違ってしまったりというような悲哀を描いているように思う。
 現実世界の我々にも、少しは思い当たる節はあるところだが、実際には、この作品のようになることは少ない。何故かと言えば、現実には理性のブレーキがあり、相手に悪いと思う部分で、自分の愛情を留めてしまうからである。しかし、理性のブレーキがあるというのは、良いことなのだろうか? 理性のブレーキを自然に持つ我々は、一番良いのは、互いを慮り、互いを慈しむことだろうと考える。しかし、自分を全てさらけ出し、好き合うという世界は、ないのであろうか? 「世界の果てに君と」の世界にも、全てをさらけ出した上で好き合うという関係性は、存在していない。作品中の大抵の人物は、行き過ぎた結果として最終的に自滅している。ならば、どうすればいいか?
 その問いに答えを出すのが、ラストの展開であると思う。元々は人間である霊夢魔理沙は、好き合っているが、そのことを言えないでいる。物語終盤まで、互いを好き合っていることを思わせるような、甘ったるい展開はなく、血なまぐさいことばかり(寄生虫に侵食されたり、四肢を失ったり、自由意志を失ったり)で、最後まで気が落ち着く暇もない。行くべきところもなく、様々なところに恨みもかって、どうしようもない、という状況に至って、初めて霊夢魔理沙は心をさらけ出し、二人の気持ちが繋がるのである。
 この作品のカタルシスは、このレビューでは到底伝えることはできない。この作品で、霊夢魔理沙が、心に持っている淡い気持ちを、「好き」と言うことができたならば、話はもっと簡単に済んでいたかもしれない。だが、それができない。その臆病さが、ここに来て報われる。
 だが、心が通じたところで、そのままではどうしようもない。絶体絶命であることに変わりはないからだ。だが、物語は三人を幻想郷から逃亡させ、別のところへ導く。
 三人が最終的にどうなったかは、確定した事柄として語られてはいない。死んでしまったかもしれない、とも言われている。だが、物語の最後で三人は自由になった、と言うことができると思う。身体が異様に変形してしまったことも、三人は不幸とは思っていないに違いない。むしろ、新しく生まれ変わり、これまでの精神的な不自由から抜け出した、ということができると思う。魔理沙霊夢は心が通じ合い、アリスは魔理沙の側にいることができる。更に、そのことの続きは描かれておらず、物語は終わっているから、読んでいる我々は、三人の幸福の永遠を、信じることができる。
 この三人は幸福であるか? と聞かれた時、作中の理不尽な不幸の数々から、頷くことは難しいと思う。だが、三人は『生まれ変わった』のだ。過去は過去でしかなく、新しく得た幸福に、過去の不幸は思い出す暇もない。
 ここで言う幸福は、我々の思う幸福とはまた違っていると考えて良い。理性のブレーキのない、全力で互いにぶつかって行ける幸福である。その果てにはいつか限界と崩壊が来るのであろうが、その結末は描かれていないから、我々は幸福を信じることができるのである。


 作品のおおまかな感想は以上である。更に加えて言うならば、物語の展開も素晴らしいと言っておきたい。予想もし得ないことが次々に起こる。これがナンセンスの面白さであると思う。一昔前の、面白さの指標とされていた、エロ・グロ・ナンセンスであるが、この作品は全て備えていると言えよう。物語の途中で出てくる、人と生物の混じったキャラクターたちも、魅力的で、物語に華を添えていながら、登場と退場、物語に対するエッセンスとしての役割も大変良かった。個人的な意見を述べるなら、シリアスな漫画と離れたところで展開する、ゆるい4コマシリーズのようなところで、このオリジナルキャラクターたち、あるいは霊夢魔理沙、アリスの三人を日常を見てみたいところである。


 この物語は、万人に受けるものではないかもしれない。だが僕個人のことを言わせていただけば、これまで読んだ東方の同人小説の中で、間違いなくナンバーワンの出来である。二次創作であることを除けば、本屋に並んでいてもおかしくない出来ではないか、と思う。「お前の読書経験が足りないだけ」と言われればそうかもしれないが、一人の人間にこう言わせることは、なかなか難しいことだと思うのである。
 この作品には崩壊の美学、終末の美学がある。思えば、以前「やまいだれ」のレビューをしたが、あの作品も崩壊と終末、また再生のある物語であった。僕は友人にこの本を貸した後、「終末系の作品が読みたくなった」と言った。後に小松左京先生の「終末の日」を読んだそうだ。崩壊と終末の美学を知っている人で、この作品を好きにならない人はいない、と僕は思う。