『サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ』

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▼作者:過酸化水素ストリキニーネ
▼サークル:過酸化ストリキニーネ/Tie Story
▼発表形態:同人誌 2012年8月11日発行
▼ジャンル:恋愛

 

 


 前回のレビュー以来、ツイッターで少し反響があった。レビューそのもの、というよりも、レビューサイトの在り方についての反響が多かったように思う。とは言え、書いたものを、見てもらえるのは、何とも嬉しいものである。
 レビューサイト云々、については、ここでは述べない。レビューサイトの在り方については、掲載されるレビューが多くなれば、自然と論議も高まってくるだろう。今は、ただレビューを書いて、このサイトを盛り上げていきたい限りである。

 レビュー、とは何だろう、と思う。感想ではなく、論文でもない。作品紹介という言葉が最も近いように思えるが、紹介と言うからには、どんな風に紹介すればよいのか。それらを包括して、レビューは書いてもよいものなのか。レビューそのものが読み物として面白くなればよいのか。レビューを書くときは、いつも、どんな風に書けばよいか、考える。
 客観的な事実を積み上げたものを書きたい、とは思う。感情的に感想を書いて、伝わるのは同じ感性を持った人にだけだ、と思う。あらゆる人に興味を持ってもらうためには、客観的な言葉を持たなければならない。完璧な客観性など望むべくもないことである。僕は未熟ながら何かしら書きたいと思うからには、僕は僕自身に完璧さを求めない。それよりは、自分なりの意見が混じってでも、何かしら書くべきだ、と感じている。
 完璧な客観性は理想なのであって、そうなれば良い、と思う。だけど、実際、書いているのは適当な論述が多い。到底完全に信用できるものではないだろう。
 僕としては、「出来る限り」努力をしていきたい心積もりである。引用から事実を積み上げることもあれば、時には個人的な感想を書くこともあるだろう。新しい発見を指摘することもあるかもしれない。そう言った部分部分で、一つでも読者に興味を持って頂き、新しく読者になることを促したい。もしくは、過去に読んだことのある読者に再読を促し、より深い作品理解を望むものである。無論、間違ったことには批判を受けるのは当然である。

 僕はレビューサイトがあることは、とても有意義なことだと思う。一読者として作者に伝わることはもちろん、同じ本を読んだ読者が言葉を交わし合うことによって、新しい発見をすることは、その本をより深く理解するのと同じだと思うからだ。賛同することもあれば否定することもある、それによって、各個人が、その本に持っている感情をより知ることができると思う。
 僕はこのレビューサイトが流行ればいいと思う。その隆盛のために、持っているSS本のレビューはできれば全て書きたい気持ちであるし、新しく読んだ本のレビューも書いていきたいと思っている。皆のレビューサイトなので、私物化しない程度に、書いていきたいと思っている。

 脱線しました。

 

・はじめに

 今回のレビューは、特別ネタバレが強いので、注意していただきたい。また、本文は18禁作品である。レビューに18禁要素は含まないが、本文を読みたい方は18歳以上の方に限ってお願いしたい。
 さて、今回レビューするのは、「サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ」。サークルTie Storyが2012年8月11日に発行したSS本だ。作者は過酸化ストリキニーネ氏。
 この本の特筆すべき点として、CD付きの本であることが挙げられる。物語を、文章以外で表現する時、強調したい部分を挿絵で強調する手法は、多くのSS本を書く方が使われていることと思う。CDが付属した本は、特に東方Project生みの親であるZUN氏の冊子を読む時にはよく目にするが、同人の小説本ではあまり目にかかったことがない。特筆しておくべき点であると思う。

 あらすじを説明すると、物語の中心になるのは古明地さとり、こいしの姉妹である。古明地こいしがさとりの妹になる過程と、その別れが描かれる。
 このあらすじを見て分かるように、複雑な物語ではない。ストーリー的にはシンプルで、大きな展開があるわけではない。レビューも、シンプルで、端的なものになるだろう。
 物語の展開は最小限で、ほとんどの部分が、こいし、さとり、それから地霊殿の妖怪達の心情の描写に文章が割かれている。
 この心情描写の細やかさが、本作品の最も特徴的な美点だと思う。
 個人的な好みではあるが、こういった細やかな心理描写がされた小説は大変好きである。

 タイトルの、「サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ」、内、サブタレイニアン→地下の、ローズ→薔薇、となる。こいしのスペルカード、「サブタレイニアンローズ」を意識したタイトルであることは間違いないだろう。各章には「ごみ屑」が入ったタイトルになっている。章題ページの「ごみ屑」には線が引かれていたり、モザイク、薄く消しが入っている。これは、実際はごみ屑ではない、というさとりの無意識の意思表示であろうか。
 章ごとのタイトルを列挙すると、以下のようになる。

#0 Thirst
#1 サブタレイニアン・ごみ屑・ローズ
#2 ごみ屑・ラブロマンチカ
#3 猫車にごみ屑乗せて
#4 閉じたごみ屑の瞳/憂鬱マクロバースト
#5 君は眠るごみ屑の園
#6 MeltDown/GarBage
#7 Born to love you

 うち、#0と#7については楽曲となる。「Thirst」の和訳は「渇き」「渇望」、「Born to love you」の和訳は「あなたを愛するために生まれた」となるようである。ちなみに、それぞれニコニコ動画で視聴できるので、一度聞いてみてはどうだろうか。

 それぞれがオープニングとエンディングのような役割を持っていると言えるだろう。本文としては、#1~#6の6章構成となる。


 今回は、物語の中心になっている、さとりとこいしの関係を中心にレビューしていきたいと思う。
 結論から言ってしまうが、この物語は、原作における古明地姉妹の関係を幸福なものとみなし、原作から外れた古明地姉妹の関係を描くことで、幸福……原作における古明地姉妹の関係へと向かう、関係性の修復の物語である。

 本作品は、3つの時間軸に分けることができる。#1が「過去」であり、#2~#6の前半が「現在」#6の後半が「未来」である。
「過去」ではさとりとこいしの出会いが描かれ、「現在」ではこいしとさとりの関係が、二人の視点、あるいは周囲の視点から描かれる。「未来」では二人の新しい関係が描かれる。

 この小説において、原作と最も乖離している部分は、こいしとさとりが姉妹ではない、ということだ。原作における古明地姉妹に「血が繋がっている」という明言はないが、「血の繋がっていない」との指摘もない。新たな資料が現れるまでは、確定事項ではないが、東方地霊殿における古明地姉妹は、血の繋がった実の姉妹だと考えてよいだろう。
 この作品では、こいしは奴隷として売られている覚妖怪の子として、さとりは裕福な覚妖怪の娘として出会う。こいしは奴隷として扱われていた時の影響で、既に第三の目を閉じている。そのため、原作のほうにある「二人きりの姉妹」という雰囲気はない。原作における古明地さとり古明地こいしは、互いに生き別れのようなドライさがありながら、互いを気遣っている様子が見られるが、本作では実際の距離は近いものの、どこかによそよそしさがある。
 原作の方では、こいしが瞳を閉じたことで距離を感じているが、かつては受け入れ合っていた過去があり、互いの奥底には愛情があるように感じる。本作品は真逆で、受け入れ合う前からこいしが瞳を閉じていたため、互いへの愛情は後に芽生えるにしても、とてもではないが互いに信用できない、不安定な関係である。

 

・出会いと関係性

 #1、物語における「過去」において、さとりは裕福な覚の娘であり、「友も敵も師も下僕も」いない生活を送っていた。「だからしょうがなくペットを飼った」が、「すぐ飽きて殺してしま」う。
 そういった幼少期を送ったさとりは、ある日、奴隷市場で、こいしを見初める。こいしは名前もない、汚れきった、右腕のない、瞳を閉じた覚の娘で、覚りで、心の読めるさとりにとって理解のできないものであった。

 

 今まで飼ってきたペットを不完全な機械(ガラクタ)と称するなら、あの売り物は間違いなく完全な生物(ごみくず)なのです。しかしそのごみ屑は、当たり前のように生きているのでした。ごみ屑の分際で!(P13)

 

 幼少期の記述からすると、さとりにとっては、生物は、意識のある機械に過ぎなかった。さとりにとって、心の読めないこいしが、生まれて初めて出会う生物だったのである。さとりはこいしに興味を持ち、こいしを強奪して持ち帰る。そして、さとりはこいしに名前を与え、世話をするようになるのである。

 原作において、さとりとこいしの幼い頃については、多くは語られない。覚りとして迫害に遭ったことが示唆されるだけだ。その結果、さとりは引きこもるようになり、こいしは瞳を閉じた。
 本作品においても、さとりとこいしはそれぞれ別のところで、似たような迫害や、畏怖を受けたはずだ。さとりには両親がおり、愛情はなかったが裕福で、不自由ない暮らしをしており、保護してくれていたようである。一方こいしは庇護する者がおらず、名前すらない、明日にでも死んでしまえば存在さえなくなるような存在である。
 さとりはペットを縊り殺すような歪んだ育ち方をし、こいしは激しい扱いの末に右腕を失っている。互いがいないことで、それぞれ何かが欠落しているのである。運命のようにさとりとこいしが出会うことは、後に本分中で「たとえば私達が本当の姉妹として生まれてきていたら」とさとりが発言することを考えると、原作を意識した、一種のパラレルワールド的世界観で描かれていると考えられる。さとりとこいしが出会うことによって、二人の運命はほんの少し、原作のさとりとこいしの関係に近付く。

 #1と、#2の間には、少し時間の隔たりがある。#2で、既に二人の関係は、さとりが「あのごみ屑が、どうにも愛しくてしょうがない」(P23)と言うように、いささか倒錯してはいるが、深まっている。#1では「元は奴隷たる身分だったのですよ。はした金で慰みに売り飛ばされる存在。(中略)私が彼女をそんな行為の為に飼っているとお思いですか。心外ですね。私は他人の身体にそちらの興味などございません。正しくは、興味を持てない、といった塩梅ですが」(P10)と言っていたことからも、変化を見ることができる。
 #2では、互いの本質について意識的に目を背けているために、比較的良好な関係が築けているようにも見える。

 

・こいしの身体の不調について

 #4で、様々なことに知識のある射命丸文が登場する。こいしは、文が自分のことを知っているのではないかと疑い、自分のことを暴露する。八つ当たり的、場当たり的で、自分のことを知られているということに、何かコンプレックスを持っているかのような振る舞いである。
 こいしは地霊殿に来るまでと、来てからの半生を語る。物心ついた頃から奴隷であったことや、右腕を理由無く切り落とされたことなどである。地霊殿に来たあとの幸せについては、「名前をもらえた幸せが貴方に判る? その名前で呼んでもらえる幸せは? 朝起きたらおはようって言ってもらえて、夜はおやすみって言ってもらえて、あったかい布団で眠れる幸せなんて理解できないでしょ?」(P45)と語る。このシーンは、文にこのように、半ば八つ当たり気味に自分の半生を語る理由が不明瞭だが、いわゆる説明的な部分だと思えばよいだろう。このように、#4では、こいしの不幸と幸福が語られる。
 ここで言うこいしの不幸とは、一重にさとりの妹に生まれつかなかったことに対する不幸と言ってよい。こいしにとって不幸はさとりと出会う前であり、こいしにとって幸福とはさとりに出会った後のことだ。
 #5では、こいしの身体の不調のことについて語られる。右手の義手の調子が悪くなり、全身の調子が悪いことに気付く。本作のこいしには右腕はなく、義手である。奴隷時代に切り落とされたようである。右腕の喪失は、目に見える明かな欠落として、こいしの境遇のアンバランスさを示すアイテムとして非情に効果的だと思う。
 こいしは長い奴隷生活で痛みに対する感覚を失っており、更に大量の薬物を投与されたこともある。「もう、この身体も長くはないのかもしれない」と、こいし自身、先の短さを予感している。

 

 片腕がないというだけで、私の当時の価値は、それまでの半分以下になっていた。その時の所有者の間では、殺して臓器を売る話まで持ち上がっていたようだった。
 だから、お姉ちゃんと出会ったあの市場は、あらゆる意味で私にとっての最後の市場だったのだ。ここで売れ残ったら、あるいは臓器より安い値段しかせりが行かなければ、一生の終わりだった。
 だから、あの時。見た事もないような額の紙幣を何枚も浴びせられ、小汚い鎖を強く引っ張られたあの時、私は確かに光を見たのだ。
 その先にあるのがたとえ未曾有の凄惨な未来だったとしても、あの声に、瞳に、手に、一生隷属したいと思った。その為に私は生まれてきたとさえ思った。
 あの手にくびり殺される為に、私は今まで生かされたのだ。

(P55)

 

 こいしは死を予感しているが、落ち着いている。逆に、心が穏やかでないのは、さとりの方である。

 

・第三の目、および二人の別れと再会

 #6について語る前に、#3で語られている第三の目観について、前もって語っておきたい。
 #3でさとりはお燐に、「言語に生きるものは皆、私を怖がります。(中略)貴方からすれば、監視されているような心持ちがしても仕方のない事です。事実、読心はそういう能力なのですもの。」と語る。その後、こいしはお燐に「こいし様は」「さとり様に心を読まれるのが嫌で、第三の目を閉じたんですか」と問われ、「お姉ちゃんに読まれて困る心なんて、何一つなかった。本当よ。私は、お姉ちゃんの前に、この心を切り開いて見せてあげたって、構わなかったのよ」(P34)と述べる。こいしは奴隷市場でさとりに拾われた時、第三の目を閉じていたからこそ物珍しさに拾われ、愛された。こいしの言葉からすれば、こいしは第三の目を開けないのではなく、開かないのであろう。さとりが望めば、すぐさま開く、と言っているようである。
 心を読まれるのが嫌なのはこいしではなく、さとりの方なのであろうか? これは#6の方で後述できる。

 #6において、こいしは遂に意識を失い、生命は維持していても、身体は腐ってゆく。
さとりは死んでゆくこいしについて、

 

 出会う前の私は、この世の何もかもに違和感を抱いていた。(中略)誰かの事を知りたいだなんて発想は、今まで思い付きもしなかった。他人に興味を持った事なんてなかったのだ。生まれて初めて生き物に興味を持った。
 そういう感情の発露は、存外心地良いのだと知った。知れば知るほど、もっと深みに下りたくなった。新しく知る毎に、疑問は増えていった。尽きる事はなかった。飽きる事はなかった。多分、幸せだった。(P64) 

 

と語る。#1における語りとは真反対で、幸福を認めている。#1で示されているように、さとりは精神的に歪みを抱えている。身体に歪みを抱えるこいしとは対になっている。
 本作におけるこいしは肉体的に、さとりは精神的に歪みを抱えている。互いに姉妹として生まれて来なかったがために、二人は関係性に歪みを抱えている。その歪みのために、こいしは失われてゆく。しかし、こいしが失われるからこそ、互いの本心をさらけ出すのである。こいしの本心は既に示されている。さとりは自らの行為を、自分本位な行動だと自らを偽り続けており、半ばその嘘に気付きながら、見ないふりをしている。こいしはさとりの心を無意識に読み取り、心を閉ざして、さとりの声が入らないようにしている。この二人の関係は、互いが健康であれば、永遠に続いただろう。

 

 地霊殿に住むペットは誰もが、私とお姉ちゃんとが血の繋がった姉妹だと疑わない。髪も瞳の色も顔も声も性格も背丈も体型も、何もかもが似通わない私達を、しかし彼らは疑う術を知らない。
 ペットの誰よりも先にその傍らにいて、同じ覚りの目を持って、苗字を等しくして、「お姉ちゃん」と呼ぶだけで。
 そこに超然と存在する既成事実は、蜃気楼のように地霊殿を取り巻いている。

(P54)

 

 こいしはその状態を、#5において、このように語っている。本来あるべき、幸せな古明地姉妹の姿を模倣する、仮初めの姉妹としての姿を示している。この小説を象徴する文章とも言える。本作の古明地姉妹は、あくまで偽物で、姉妹としてそれらしく装ってはいても、さとりの側の、こいしの側の歪みで、その関係性を失ってゆく。
 さとりはこいしの安楽死を考える。燐にも促され、さとりは迷うが、四季映姫に妹を殺した罰は必ず与えることを約束され、決断する。
 そして、さとりはもしも、有り得ていたかもしれない古明地姉妹を夢想する。

 

 たとえば私達が本当の姉妹として生まれてきていたら、世界は違ったのかもしれない。
 私達は嫌われ者の姉妹となって、妹はそれに嫌気が差して第三の目を閉じたりするのだ。私は月並みにそれを悲しむのだ。妹は何食わぬ顔で無意識を満喫する――そんな世界が、もしかしたらあるのかもしれない。
 もしそんな世界があるなら。
 もしそんな世界があるなら。その世界の古明地こいしが、ただ幸せであれば良いと願う。

(P76) 

 

 さとりは、幸福な世界……本来の古明地姉妹、原作における古明地姉妹の関係、というものを、パラレルワールド的に夢想するが、それを望みはしない。さとりは自らの手で妹の命を絶つことを、「私さえ、私を許してはいけない」と断罪する。本来あり得た古明地姉妹は、無邪気な夢であり、本作の……歪みを抱えた古明地姉妹には、辿り着けない領域なのだ。
 その代わりに、さとりは祈る。

 

 私がみんなの帰る場所になるから。だから、どこに行っても良いし、帰ってこなくても良い。
 (中略)だから、こいし。もう、私の為に無理しなくて良い。貴方は貴方の行くべき場所に、行って欲しい。
 今まで、ごめんね。

(P75,76) 

 

 さとりはこいしの命に手をかけるが、こいしを殺す前に、こいしの第三の目が開かれ、初めてこいしの心を読む。そして、今までは半ば気付きながら、見ないようにしてきたこいしの愛情に初めて向き合う。こいしは、さとりに心を覚られないために、心を閉じていたのだ。
 そうして、こいしは死んでゆくのである。さとりは死んでゆくこいしに、「私はずっと貴方を待ってる」と告げる。こいしがいなくなる、ということについて、当然の哀しみのほかに、ふらりといなくなるような、不在がそこにある。
 こいしが死ぬことによって、#6……物語での「現在」は終わる。そして、「未来」……新しい関係性へと、続いてゆく。

 

・古明地姉妹の幸福

 #7は、こいしの生命維持に使われていた器具の処理について考えていることから、#6からそう長い時間は経っていないようである。
 本来、死とは終わりの象徴で、こいしの死によって物語と関係性は終わるはずであったが、こいしは閻魔の裁きを受け、転生して罪を贖うことを命じられ、猫となって戻ってくる。
 さとりが望んだ本来の関係性は、本当の姉妹になることだった。だが、妹として生まれてくるのではなくて、猫としての命を得るのである。火焔猫こいしと名付けられて、地霊殿の一員となるのである。
 姉妹ではなく、猫として。妹としてではなく、ペットとして。

 本物の家族を求めていた二人であるが、歪みを抱える二人にとって、本物の姉妹は届きようもない、貴いものであった。だが、二人はそれなりに幸せそうである。歪な関係性を孕んでいた二人は、だけど、最期の瞬間心を通じ合わせたことによって、ある種生まれ直したのである。

 

・まとめ

 この作品の美点について、こいしのキャラクター性について、既成の古明地こいし像から一歩進めて、新しい表現をしているように思う。
 古明地こいしには危うい雰囲気がある。心を閉ざした、という経歴は、絶望を一度抱えた不幸な生い立ちを感じさせる。本作では、古明地こいしの持っている雰囲気を、より直截に表現している。
 こいしの、その後ろ暗い性質としての死を、この作品では乗り越えて、幸福な物語として、不思議なカタルシスを得られるようにしている。
 それに比べれば、さとりのキャラクター性については、充分に描かれなかったように思う。本作におけるさとりの不幸さは、さとり自身深く考えていないようであったし、さとりの不幸を描くことによって、こいしの不幸さが薄れる、と考えたようでもある。逆に言えば、こいしの不幸を眼前にしているから、さとりは自らの不幸さは問題にしていない、むしろ裕福な育ちをしていることに引け目すら感じているようである。さとりにとっては、こいしはどうしても不幸に見えたようだが、そのあたりについて踏み込んだ文章はなかった。だが、これは悪点ではなく、むしろこいしを描く物語として、一歩引かせたことは評価できる。だが、反面、#6のさとりの語りや、#2における感情の変化には、多少唐突な感じがないでもない。

 本作に付加された二つの楽曲そのものについては、今回のレビューでは述べない。僕自身が東方アレンジという業界について詳しくないこともあるし、率直に言ってしまえば、大抵の東方アレンジはどれも同じに聞こえてしまう程度には無知であるので、述べることはできない、と言うべきだろう。他の東方アレンジに比べて良い、悪い、という話はできない。物語の雰囲気を作る一要因として、新しい試みだ、と述べることに留めておきたい。