『やまいだれ』

▼作者:奈利氏
▼発表形態:東方創想話投稿作品

 

 

 はじめに

 
 好きな作品、というので、考えてみたが、僕はどうにもこの作品が好きだ。改めて考えてみたいと思う。
 多分ネタバレになると思うので、そう言ったものが苦手な人は避けてほしい。ただ、2008年の作品だし、(もう6年も前!)創想話で名作の話題になると上がってくるので、大抵の人は筋を知っていると思う。
 大学でちょっとかじった論文形式で書いてみるが、お遊び程度なので細かいところは多めに見てもらえると嬉しい。綻びがあればそれを踏み台に新しいレビューが生まれるのを望むばかりである。あと、引用の細かいページについては面倒なので大雑把にしか示さない。
 
 「やまいだれ」は霊夢と雛が中心になる話で、カップリングで言えば珍しいと言える。が、いわゆる百合もの、カップリングとは少し違うように思う。明確な恋愛感情がなく、(百合……いわゆる女性同士の恋愛感情については、定義が難しいが)霊夢の厄との繋がりで、雛が表れてくるからだ。
 全体を一言で言えば、「霊夢がキャラクターとしての立場を踏み外す話」として見ることができると思う。成長小説としての要素もある。この小説は番号と、「発生」「胚」などの用語を章ごとに並べる形式となっている。
 少し話は逸れるが、並べておこうと思う。「1.」「2.発生」「3.胚」「3.孵化」「4.幼生」「5.成長」「6.変態」「6.成体」3と6が二つあり、1にはサブタイトルがついていない。生物の成長の過程からタイトルが付けられていることと、物語に登場する妖怪が蛇であることから、1のサブタイトルは「1.卵」ではないだろうか? また、3、6が二つある理由については、推測になるが、霊夢と、霊夢の体内で育つ妖怪の二つが同時に成長しているということの暗示ではないだろうか? 3で二つに分かれ、6で二つの別の存在になったことを示す。3の胚は霊夢(あるいは霊夢自身の意思)で、孵化は妖怪(蛇)。6の変態は妖怪で、成体は霊夢である。哺乳類、人間である霊夢は変態や孵化を行わないため、そう推測する。あくまでこれは仮定であり、推測の域を出ない。
 
 余談になったが、作品について、章を追って見て行きたいと思う。
 
 
 
 
 1 「1.」 霊夢について
 
 2008年3月に「やまいだれ」は投稿された。2008年辺りの東方の動きで言えば、2007年8月に風神録が発表された。非想天、地霊殿体験版はともに2008年5月なので、ここでは意識しなくても良い。
 東方のキャラクターというのは、時代と共に変化すると言って良い。原作者ZUN氏が考えなし……もといキャラクターの多様性を認める描き方をするため、新作が出るたび、新しく扱われたキャラクターの性格が全く変わったりする。最近では東方心綺楼よって物部布都が、寺を焼こうとする他は存外真っ当な思考をしていたり、河城にとり守銭奴であったりするなどがあった。更に、二次創作の世界まで加われば、キャラクターは更に変わる。今は嫌われがちだが、十六夜咲夜がPAD長など呼ばれていたり、森近霖之助がふんどしをはいていたりする。
 過去キャラが新しく出ると、新しい一面が発掘されてキャラクターの変容が行われる一方で、博麗霊夢のキャラクターは大枠では変わらない。一つには役割が既に決まっている、というところにあると思う。シューティングではホーミング射撃が主であり、どちらかと言えば初心者向けの自機であり、キャラクターで言えば能力はありいくつもの異変を解決している。が、怠惰で、仕事はよくさぼり、妖怪に対して容赦はしないように描かれる。いささか二次創作に偏れば、天才的であり、守銭奴のように描かれる。貧乏、というのは公式でも良いように思えるが、守銭奴、賽銭巫女、というところまで行くと、二次創作的である。この辺りは人によって解釈の微妙に分かれるところだと思う。
 
 本文の1,2において、霊夢魔理沙、そしてアリスの、妖怪を退治する姿勢について語られる。
「妖怪を退治する姿勢は、アリスがもっとも趣味性が高く、対照的に霊夢は実益だけを求めていた。
 アリスは見栄えを意識し人形を操りながら戦い、一方霊夢は勝手に相手目掛けて飛んでいく御札に任せて、効率 良く倒すことだけを追求していた。
 魔理沙は魔術の訓練のついでに楽しむという感じで、アリス寄りの意見を持っていた」(本文1)
 実益を求める、効率良く倒す、ホーミングのお札を使う……これらは、一般に語られている霊夢の性質と同じである。その一方で、霊夢霊夢自身のキャラクター性を踏み外す。
 
 原作の霊夢にとって妖怪退治は仕事ではあるが、あくまで賽銭によって生計を立てている、というのが原作の立場であるように思う。妖怪を退治することによって直接妖怪や妖精から何かを奪う描写は見られない(妖々夢に置いては、マヨイガから何かを持ち帰っているような描写はある)。だが「やまいだれ」の霊夢は、ミスティア・ローレライの屋台から八目鰻を奪うなど、妖怪から物を強奪している。
「来る途中で屋台が出てたから、もらってきたのよ」(本文2)
 だから、「やまいだれ」の霊夢は、妖精を倒すことに意味を見出していない。
魔理沙は二十匹倒したっていうけど、妖精なんか何匹いたってしょうがないのよ。あいつらが何かいいものを持ってる?」
「問題は妖怪。それも稼ぎになるやつだけよ。だから何匹倒したかは問題じゃないの。一日で幾らもうかったかだけが問題」(本文1)
そんな霊夢の様子に、魔理沙やアリスは、ショックを受けて、いわゆるどん引きするのである。
 霊夢のキャラクター性は原作を踏襲しながら、その一方で、妖怪から平気で物品を奪う霊夢は、「やまいだれ」独自のものである。原作を踏み外しつつ、きちんと原作を抑えている、そのバランス感覚がまず絶妙で、物語序盤の軽口のような会話からも、作者のキャラクターに対する細かな心遣いが感じられる。
 この、静かに示される霊夢の歪みに、読者は当初気付かない。あくまで二次創作にありがちな、物語に入り込む入り口の軽口であり、多少やりすぎている程度で、二次創作の霊夢ならこの程度はありかもな、と思わされるのである。
 
 
 
 
 2 「2.発生」「3.胚」霊夢と幻想郷の繋がりについて
 
 アリスと魔理沙の仲が深まってゆくのに、霊夢はその中には混じれない。霊夢が疎外感を感じるのには、考え方の違いがあった。「やまいだれ」の霊夢は前述のように、妖怪は奪うための土壌であり、仲良くするとは考えなかった。だが、アリスや魔理沙は違う。アリスや魔理沙は仲良く暮らしている。霊夢の略奪をおかしいと感じてゆく。
 ここでの魔理沙とアリスの考えは、はっきりしない。いわゆる恋愛関係にあるのかもしれない。普通の創作物では女性が二人だからと言って恋愛関係とは考えないが、東方界隈は特殊なところなので、ここで魔理沙とアリスが恋愛関係だと考えるのも、そう飛躍した考えとは思えない。
 だが、まあ、基本的には、アリスと魔理沙は、我々一般社会に暮らす人間と、そう大差ないものと考えて良いと思われる。この物語における霊夢は異質な存在であり、魔理沙やアリスが異質だとは思えない。むしろ、一般的な原作、あるいは二次創作の魔理沙やアリスよりも、現実にいる我々のような一般人のように思える。原作や二次創作であれば、妖怪から奪う程度はまあ許容するように思う。だが、我々が、強盗を自慢する人間を見れば、どん引きして関係を考えてしまうだろう。そういう意味で、「やまいだれ」のアリスや魔理沙は、人間的だ。
 二次創作においては、霊夢の考え方はそう変わったものではないだろう。書き口によってはコメディ的に処理されてしまったりするはずだ。だが、それは書き口の問題であり、「やまいだれ」の幻想郷社会において、その強盗行為は許されないのである。
「明確に作中にこうだと表れている訳ではないのですが、この作品の幻想郷は全ての資源に限りがある、そういう設定で書いています。
 山中の閉ざされた里をイメージし、その中での物資の生産には限界が生じるだろうとの考えから、まず食べものが簡単に手に入らないように設定しました。
 そこから発展させ、愛、時間、労力にも限りがあるだろうと、現実の世界をある程度反映しようとしました。
 生きるための糧を始めとし、愛、希望、幸福、大切なものは全て有限であり、他者とは分かち合うことができない。
 希望はもちろん、絶望や怒り、激情すら留めておくこともできず、時と共に消え去り、それこそ朝の光にすらかき消されてしまう……」(作者コメント)
 作者自身が語っているように、「やまいだれ」幻想郷では物資が少ない。後にも言及するが、霊夢の置かれた状況から考えても、幻想郷の食物は潤沢ではなく、他人に与えられるものではない。その物資を、霊夢は奪っているのである。奪うことによって、魔理沙やアリスの心を惹き付けようとするのだが、その行為は互いを隔てる距離を、大きくするばかりである。
 ここで注目したいのは、幻想郷社会の資源問題について、作者は言及していることである。幻想郷の食物、あるいはエネルギー等の資源について、原作中で断片的に語られているものの、大半は「八雲紫がなんとかしてくれる」的な万能の言い訳があり、詳しく言及されることはない。
 更に八雲紫について言及すれば、博麗霊夢の能力はその全てが霊夢自身のものであるとは限らない。「やまいだれ」よりは後だが、東方儚月抄において、八雲紫霊夢の修行を助けるシーンがある。このことから考えれば、霊夢の力は霊夢自身のものだと考えられるが、霊夢が天才的な、万能さが描かれる時、紫の裏からの手助けがあるとも考えることができる。霊夢も紫と同じく、境界を操ることもあり、時折博麗霊夢八雲紫は同一視されることもある。博麗霊夢の万能さは、八雲紫の万能さでもあるのだ。とは言え、この論はあまりに二次創作的であり、原作的ではない。
 話は逸れたが、この「やまいだれ」中で、霊夢はそう言った略奪行為について、誰かから害を受けることもなければ、誰かに咎められることもない。霊夢が万能であればあるほど、誰も霊夢を咎めることはできない。逆に言えば、霊夢を襲う悲劇は、霊夢の心から生まれたものであって、霊夢の心から生まれた厄の他には、霊夢を害することはできなかった。このことは、幻想郷の管理者たる八雲紫が、ラストの幻想郷崩壊を押し止めることができなかったことの、一応の理由にできるのではないだろうか。
 重ねて言うが、霊夢の思考は、アリスや魔理沙の思考とは食い違う。アリスや魔理沙の思考を勝手に読み取ると、略奪には限界があるし、限界があることを知っていればこそ、他人と協力しようとするのだ。霊夢はその考えが分からない。あくまでも霊夢の思考は、二人とは重ならない。
「完全に聞く気もない、二人の前で話すのはつらかった。
 どうして、急にこんなにも変わってしまったのか霊夢にはわからなかった。
 三人で誰が一番強いかを話しているのが、みんな楽しかったはずなのに。
 霊夢が妖怪退治の話をするだけで、二人共困ったヤツだ、といいながらも、喜んでくれていたはずなのに。
 何故、こうも変ってしまったのだろう?」(本文2)
 霊夢にとって、世界は幻想郷だけであり、更に言えば、「やまいだれ」世界では友達はこの二人だけである。二次創作では八雲紫森近霖之助、アリス等と関わりが多いが、原作中では最も絡みが多いのは霧雨魔理沙で、そのほか明確に友人と呼べるものはないように思える。博麗霊夢は孤独である。ここは原作を踏襲している。
「何者に対しても平等に見る性格は、妖怪の様な普段畏れられている者からも好かれる。逆にいうと、誰に対しても仲間として見ない」(東方永夜抄 キャラ設定)
「自由奔放な人間」(東方茨華仙 肩書き)
 その他にも原拠はあるが、面倒なので述べない。霊夢は孤独でありながら、人間的な関わりに飢えている。これは一般的な少女としては当然であり、特に目の前でアリスと魔理沙が仲良くしながら、自分だけ関われないというのは、嫉妬心も交わってより強くなるだろう。
 霊夢は原作の孤独さに引きずられている。霊夢は他人と関わらない、という制約がある。この制約は、二次創作では軽視されがちである。それは我々の一般的な思考に基づいている。「やまいだれ」での霊夢は、妖怪から平気で略奪を行う悪党である。その霊夢は一般的な思考からすれば犯罪者であり、我々も魔理沙やアリスと似たような反応を返すだろう。他人と仲良くする霊夢、略奪を行い、他人と思考のズレが生じ、孤立する霊夢、どちらも同じ二次創作である。だが、どちらかと言えば、前者の霊夢は好意的に受け入れられ、後者のような悪者としての霊夢は、受け入れられがたいように思う。しかし、「やまいだれ」を読み込むと、その境が曖昧になってくるように感じる。霊夢はどこまでも霊夢らしい……だけど、どこかに違和感が残る。
 その違和感とは、霊夢の思考が、原作に引きずられながら、人間社会的な繋がりを求めている。言ってみれば、孤独でありながら、他者を求める、「原作」から「二次」へと変化してゆこうとしているのである。「やまいだれ」の幻想郷社会は、原作のような曖昧な社会とは違う、資源に乏しい現実的な幻想郷社会であり、アリスや魔理沙の周りの人間の思考も、どちらかと言えば現実的である。その中で霊夢が一人孤独で、自由なのである……「やまいだれ」は、原作の霊夢が一人、二次創作の幻想郷に取り残されているとも言える。これが我々の感じる違和感の正体である。そして、この違和感は、霊夢自身の違和感でもある。
 
 
 
 
 3 「3.孵化」雛について(厄について)
 
 他人から疎外され、孤独である……こういった状況の中で、霊夢は鬱屈する。鬱屈した心理状況で、鍵山雛と出会う。
 霊夢は雛に対して、謂われのない暴力を加える。鍵山雛は厄を集める神であり、不幸を糧としているように、霊夢は思ったのだろう。実際、精神的存在である妖怪は、存在が忘れられると存在していられない。厄神である雛は、厄という考えがなければ、生まれもしていなかっただろう。
 霊夢の雛への暴力は、全く事実無根と言うわけでもなかった。事実、雛は後に、霊夢の厄、不幸を「甘美」「糧」と発言するのである。雛が厄を祓い、不幸を遠ざけるのが事実なら、厄を甘美な糧と思うのも事実なのだ。雛は実際、そう思われても当たり前であり、普通のことなのだろう。雛は、厄を内側に孕んでいる。
 雛はそうした、ある意味では「穢れた」存在でありながら、(穢れているからこそ?)霊夢の歪みに気付き、霊夢を気遣うが、それが逆に霊夢の逆鱗に触れ、逆上させてしまう。雛の穢れを見下し、「清めなければならない」(本文3孵化)と断じる。
「神とは無垢で無辜であらなければならない。」(本文3孵化)
 霊夢が雛を断じる時の、この一文は力強い。霊夢は神性というものを強く意識する。だが、この神に対する意識は、霊夢の間違いである。後に、霊夢は雛の残酷さの中に、美しさを見、強く惹かれるのだから。
 霊夢が神の中に無垢と無辜を見る時、霊夢霊夢自身の中にある醜さを同時に見る。無垢で、人々の象徴であり続ければ、霊夢は事実神と等しいものだっただろう。だが、霊夢は事実人であり、人でありながら神であろうとする。理想を求めながら、現実を知ってゆく人間社会の少女と、この感覚は変わらない。
 完璧さ、理想さを求めながら、自身の醜さに気付く、成長小説としての部分も、「やまいだれ」は持っているのである。
 霊夢には神性があり、雛には厄……不幸な性質がある。だが、霊夢は人として持っている醜さ、不幸さ、汚さを、たっぷりと持っているのである。自身が汚く、みじめで、不幸になることなど微塵も考えてはいない。仲間から背を向けられ、一人になったことを哀れまれ、そうして霊夢が厄を持った雛を穢いと断じて暴力を振るう時、霊夢の中に厄が入り込むのである。
「あんたなんて――――――――、死ねばいいのよ――――――――」(本文3孵化)
 穢いものは、厄を持っているものは、不幸なものは、「死ねばいい」という考えを、霊夢は言葉にする。この言葉は雛に向けながら、同時に自分にも向けている言葉である。「雛は来るはずの無い助けを求め、踏みつけられる足を霊夢の下から引き抜こうと無駄な抵抗をしている。」(本文3孵化)この中の雛を霊夢に、霊夢を不幸に言い換えると、後に霊夢に降りかかる不幸を示すように見える。事実、霊夢が雛に暴力を振るう場面は、後に足に障害を負う、霊夢の不幸を暗示して書かれている。
 
 
 
 
 4 「4.幼生」キャラクターとしての自己からの乖離
 
 本文4では、霊夢の中に生まれたものと、幼さの象徴としてのレミリアが示される。
「幼い少女のままの無邪気な心。
 霊夢が昨日までは持っていた、とても貴重な、何物にも代え難い輝けるもの。」(本文4)から分かる通り、レミリアを幼いものとして見ている。そして、霊夢は幼かった自分のことと、幼い時期が終わってしまったことを感じるのである。
「体が不自由なことなど不幸のうちには入らない。
 一度失うと再び手に入れることの出来ない時間を喪失してしまったことが、霊夢の上を少女時代が通り過ぎてしまったことこそが、不幸なのだった。
 先が見えず、自分は永遠に過去にだけ理想を持ち続けたまま生きていくのではないかという想念が、霊夢をいらだたせ、胸に住み着いた生物を蠢かせるのだった。」(本文4)
 本文4では、過去の理想についても詳しく述べられている。
 「巫女に破れることで、自分達の生存の基盤である幻想郷を食いつぶすこともなく、異変を収束することが出来る。
 決まりきった昔話のような安心感がそこにはある。
 霊夢は主人公の役割を演じ、拡散し意味を失いそうになる物語に方向性を与え、結末を与えてやる。
 全てが約束のうちに進み、定められた手続きを踏んで、終わりへと向かう。
 霊夢の自由意志はそこにはない。
 
 そんな霊夢が自分の意思で人間の形をしているものを殺そうとした。」(本文4)
 この文章は、作品の内容を集約していると言える。過去からの脱却を果たそうとし、その結果、健康な身体を失うのである。足を失い、代わりに、霊夢の内側に棲む蛇の妖怪を得た。内側の蛇が育つのはこれからである。
 霊夢の内側でうねる蛇の感触を、霊夢は「体の中に何か別の生物が這い入ってくる汚穢感」と感じる。これは実際妖怪の感触のこともあるだろうが、幼さを失い、大人へと変化してゆく意識のようにも思える。
 霊夢は過去を失ったのである。そして、霊夢は足を気遣うレミリア咲夜を追い返し、一人になるのである。ここに、霊夢の少女らしい潔癖さを見ることができると思う。一度、違ってしまったものは、もう元に戻ることはない。過去の関係さえなかったものにする、しないといけない、という意思が読み取れる。幼い子供ではなく、一人で何でもできる、できなければいけない。だから霊夢は「霊夢は何でも無いと、大人のように作り笑いをしてみせる。」本来なら頼ってもよいはずなのに、それを良しとしない。本文3孵化中で雛に向かって吐き出した「死ねばいい」という言葉は、もう既に自分に返ってきている。穢く、醜く、不幸なものは、「死ねばいい」のである。
 
 
 
 
 5 「5.成長」「6.変態」 人から神へ
 
 本文5では、タイトルの仮定に基づいて考えると、霊夢の成長、また、体内の蛇の成長である。二人は同じ身体の中で、共に成長してゆく。蛇は霊夢に痛みと不自由を与え、嫉妬心を煽る。不幸を増幅してゆく。そして、霊夢は、「決まりきった昔話のような安心感」から離れて、一人で、安心のない、苦しみの中の生を生きてゆくのである。
博麗霊夢の命は幻想郷を維持する結界のためにある。
 霊夢もそれが当然だと思って生きてきた。
 あらゆることが定められたように、霊夢の意思に拘らず解決していく。
 ただ流れに乗るだけの、川を流されていく小枝にしか自分が過ぎないと、退屈な生活に悩んだ日もあった。」(本文5)
 霊夢は過去を思うが、既にそれは幼い頃の自分であり、今とは違うものなのである。
霊夢はあの穏やかな少女時代が取り戻せるなら、どんな悪事だってしてやるつもりだった。
 ただ問題は、少女だった自分の悩みを子供の甘えと笑い飛ばせるようになってしまった今の霊夢には、過去に戻ったとしても世界そのものが薄っぺらにしか見えず、同じように楽しめないことだった。
 自分自身の世界に対する認識の変化こそが、苦痛の源だった。」(本文5)
 今の霊夢は、過去とは違うものであり、ストーリーに沿うことしかできない自分に価値を見出すことはできない。ならば、霊夢の苦境は、霊夢自身が望んだものだ。「自死するという思考の魅力に負けそうになる」ほどのものであっても、霊夢自身の望んだ自由なのだ。いわば、神の代理、偶像としての役割から離れようとした。キャラクターからの脱却を果たそうとしたのである。だが、幻想郷を保つという役割からは、霊夢が歩けなくなって、妖怪退治が行えなくなっても、変化することはない。ここでも、霊夢は、役割から逃れることはできない。
霊夢が床に伏し、怪異を治めることも出来なくなることが広まると、妖怪達は騒ぎを起こすことを止め、自然と幻想郷からは事件は無くなった。
 妖怪達が大人しくしているせいで、里人は以前よりも博麗神社と意識することもなく生活を続け、山もまた平穏だった。」(本文5)
「忌み嫌われ、不幸を集めたような姿のまま生き、祟りを恐れる人々から畏怖される。
 ただ、その代わりに一月に一度、家を訪れて不幸を引き受けてくれる神。
 村人達は意識していなかったが、霊夢の存在は神に近いものになっていた。」(本文6変態)
 通常ならば、自死を選んでいるような状況でさえ、霊夢の強靱な肉体と精神が、それを許さない。しかし、再び表れた雛に諭される。
「不幸には先がありません。これ以上はないと思ったらまだまだ先があるのです。一旦落ちれば最後。激しい波に攫われたように抵抗することも出来ず、勢いに振り回されることしかできない。一つの不幸はさらなる不幸を呼び込みます。あなたが言ったように」(本文6変態)
「たとえ死んだとしても、今の苦しみを持ったまま、地獄行きです。生きているつらさは、生きている間になんとかしないと、死んだからと言って消えるものではないです。死んだら楽になるなんて、そんな幻想は早く捨てたほうがいいですよ」(本文6変態)
 死んでも終わらない苦しみがある。雛には「一人で死んで下さい」と切り捨てられる。霊夢が求めたものは、「残酷」さ……神になることだった。
 霊夢は自らの快楽のために、雛に一方的な暴力を与えた。穢いものは清められなければならない……しかし、この世に、穢れていないものはあるだろうか? 神でさえ、残酷さに彩られた、美しい不幸でしかないのではないか。
 幸福というものが一定数しかなく、その数字を奪い合うものならば、世の中は残酷でしかない。霊夢が皆のために不幸を清めようとしたとして、その行為自体は残酷なもので、残酷なものを許容しようとすれば、神になるしかない。他人に不幸を与えることも、不幸を取り除こうと自分に厄を集めることも、同じことなのだ。残酷さを等価交換するということでしかない。厄神というものの不可解さは、厄、不幸を取り除く……ということの不可解さにあるのだろう。厄払いをした時、払われた厄はどこへ行くのか? 他人へと与えられるものを、一方的に集めて回る厄神というものは、一方的な不幸というものは、存在するのだろうか? 厄神というものがそうした性質を持つならば、間違いなく鍵山雛は神なのである。
 神は一方的に与え、一方的に奪う存在である。人間として生きる限りは、幸福や不幸のやりとりから、逃れることはできない。他人を羨み、嫉妬することからも逃れられない。不幸から一方的に逃れようとするならば、神になるしかない。
「私だけが味わえるもの。私だけが知る美しさ。世の不幸は全て私だけの糧。だからこそ、人に蔑まれても生きていけた。私だけの痛み。」(本文6変態)
 雛の本当の意思は、ここにしかないように思える。正直に言えば、雛の情報は少なくて、どう思っていたのか、この部分だけでははっきりしない。だが、雛もまた一方的な不幸しかなく、それを喜んでいる。神には不幸も幸福もない、が、人として不幸を味わうという感覚を、この部分だけで表現できているとは思えず、どちらかと言えば人間に近い感覚で、雛は描かれている。だが雛の意思とは関わらず、行いで神として見られることは、これまでの霊夢から見ても明らかである。雛もまた、厄神の役割から、脱却を望んでいる。
 そして、 霊夢は事実、神へと向かってゆくのである。
 
 
 
 
 6 「6.成体」 神の行方
 
 蛇の発生と引き替えに、霊夢は一度消滅するが、蛇の消滅を経て、霊夢は復活する。死と再生は、神としての不死性を得るために必要な儀式である。キリストは処刑された三日後に蘇った。死でさえも隔てられることのない、永遠の存在になるのである。ここで、読者は、霊夢が死ななくて良かった、と思えるものだろうか? 思えるはずがない。
 霊夢は人間と神の中間的存在であり、どちらかに傾くことも、本来はありえない。霊夢は最後の最後、復活して人ではなくなっても、人らしい感情はまだ持っている。
「人間として、どうしてかわからないがそこが最後の一線で、役目を投げ捨ててしまったら、博麗霊夢として生きてはいけないような気がするのだった。
 別の何かになってしまう気がするのだった。」(本文6成体)
 霊夢を最後に説得したのは、雛の言葉だった。
霊夢、悪いことしましょ。二人で名もない妖怪になるの。そうしたら私は鍵山雛でなくなり、あなたは博麗霊夢でなくなる。二人でひとりの名前のない妖怪。そうなったら私たちは役目にも立場にも縛られることがなくなるわ」
「雛の言葉についに霊夢の中で何かが壊れた。」(本文6成体)
 霊夢は立場を、役目を捨てる。これまで疎んじてきた、「霊夢の意思に拘らず解決していく」日々を、退屈な平和を放り捨てて、「名前のない災厄をばら撒く神」へと変貌してゆく。博麗神社と幻想郷が消えて、どこかへと立ち去って行ってしまった二人は、もはや概念と変わりない。不幸そのものである。
 幻想郷が消えた以上、外の世界に行ったようだが、その部分については語られない。外へ出たとしたら、外の世界にも神社があり、霊夢のような存在がいるのだから、幻想郷のように即座に崩壊するということはないだろう。しかし、作品中では外の世界のことについては語られておらず、最後の一文は象徴的である。
「風が止み、朝日が地上を照らす頃には全てが消え去り、そこには何一つない荒野となっていた。」(本文6成体)
 たった一つの不幸が、幻想郷を消したわけではないだろう。だが、不幸が万人に降り注ぐものならば、幻想郷の寿命は決まっていた。八雲紫八意永琳西行寺幽々子八坂神奈子……彼女らは新しい幻想郷を作り出すことはできても、人が自ら歪んでゆくのを、留めることはできない。霊夢が自身の役割を疑問に思い、脱却を望んだように、第三者の影響があれば、その歪みから脱却しようと思うはずだ。霊夢が永遠に役割に徹していたならば、それは霊夢が偶像として神に等しい位置に居続けることになる。それがハッピーエンドだろうか? 原作世界の捉え方の問題ではあると思う。原作の雰囲気のように牧歌的で、何一つ疑問はなく、誰も彼も何となく幸せで……しかし、「やまいだれ」の幻想郷世界はそうではないのだ。だが、ただ過度に現実的に、不毛な世界を描き、悲劇性を浮き彫りにするのは、それはそれで非現実的である。そのバランスを、「やまいだれ」は、少女から大人へと過渡期を描くことで、立場と自分との対立を明確にし、結果幻想郷の崩壊へと導くというストーリーを、物語的リアリティを持って作り上げることに成功している。
 
 
 
 
 終わりに
 
 2008年という時代は、東方界隈が最も賑わっていたピークのように思う。これは感じ方であって、個人差があるだろう。僕がそう感じるのは、この辺りから徐々に人が減ってゆくように感じるのである。東方は人が離れにくい界隈だと言われていて、好きな人はずっと好きな傾向があるようだが、ニコニコ動画の流行もあって、いわゆる新参が参入し、古参が離れていった流れがあった。新参者の参入によって、ネタ的な爆発力のある二次創作が流行し、古参者がそれを嫌う流れが生まれたように思う。東方そのものを知らないが、二次創作ネタだけを知っている層の増加である。いわゆる二次創作ネタでキャラクターを描く流れは、2014年現在、ほとんど消えたように思う。単純に飽きたこともあるだろうし、いわゆる新参者に見られるのを嫌ったようにも思えるし、原作に対して真摯になった結果のようにも思える。
 この作品の時代は、新参者が増え、にわかに原作懐古を謳う勢いがあったのではないか、と思う。詳しく知っている方からすれば失笑を買うかもしれないが、「やまいだれ」には、原作と二次創作の合間の葛藤、さらにはその破壊がある。
 
 近頃の創想話では、タグや、概要により、前もって作品の傾向を知ることができ、特定の作品傾向については前置きがないと、コメントでそのことを指摘されることもある。だが、「やまいだれ」が投稿された作品集50ではタグも概要もなかった。前もって注意をする時、作品の頭に前置きをしていたのである。現在の創想話にタグや概要がついたのは、そう言った空気があるからではないだろうか。キャラクターが不幸になる作品は、二次創作で、キャラクターを借り物にしているわけだから、あまりに原作と雰囲気がかけ離れていると、非難されがちである。しかし、作品として書く時、幻想郷にある不幸を描かずにおけるものだろうか? 幸せなものを書くのは良いが、その裏側にある不幸一切を見ずに済ませられるものだろうか? だから、暗いもの、原作とは離れた過度な恋愛を描く時、創作者は前置きやタグで示すのである。それはマナーとして成り立つ良い風習であるように思う。
 原作から離れ、不幸へと突き進み、果ては幻想郷を放り捨てて行く霊夢に、読者は不快なものを見るのではないか。ある意味では、基本的に不幸にはならない霊夢の、醜い姿を集めた作品でもあるのだ。無論そのことによって作品の価値が変わるはずもない。 
 
 キャラクターは不幸にならない。幻想郷では、それなりに皆幸せに生きているように見える。ある意味で、「やまいだれ」は原作から最も離れた二次創作なのである。無論、読者を納得させ、心情を理解させる話の流れの作り方は、絶賛に値する。二次創作から離れている部分があったとして、作品の魅力を減じるものではないように私は感じる。この考えは、人によっては当然違うものだ。しかし、原作から逸脱しながら、新しい魅力を探すのが、二次創作の務めならば、これほど二次創作として魅力的な作品もないのである。
 
 あらためて、この作品を象徴すると感じる文章を引用しておく。
 「決まりきった昔話のような安心感がそこにはある。
 霊夢は主人公の役割を演じ、拡散し意味を失いそうになる物語に方向性を与え、結末を与えてやる。
 全てが約束のうちに進み、定められた手続きを踏んで、終わりへと向かう。
 霊夢の自由意志はそこにはない。」(本文4)
 
 あらゆる創作物は、世相を反映する。当時の創想話、引いては東方界隈には、原作を重視するか……二次創作的な、独自のものを描くか、そういう二つの流れがあったのではないか。そういった時期の中で、この作品は生まれたのではないかと思う。幻想郷があまりに幻想郷的であろうとするがあまり、人間社会に暮らす我々にとっての幸福からはあまりに離れたところに着地した。「やまいだれ」のラストは、幸福を追求する人間社会と、害悪、厄を内包している幻想郷社会の、融合していった結果のように思える。現実は幸福でもなく、不幸でもない。その曖昧な灰色のところにある。
 そういう曖昧さを、言葉にしがたい微妙な感覚のところで、描いているように思う。