『地下室をつがいが歩く』

▼作者:タノモウス氏
▼発表形態:東方創想話(作品集153)

 

 紅魔館の地下、フランドールの部屋。舞台はそこだけ。

 登場人物はこの部屋の主であるフランちゃんと、紅魔館の門番である紅美鈴の二人だけ。厳密にはフランちゃんにおやつを運んでくる妖精メイドがいるけど、まあ、数行出てくるだけだ。フランちゃんと美鈴は、地下室で、向い合って座っている。二人の目の前にはビスケットの入ったお皿がある。フランちゃんが言う。

 

 

「つがい」 

 

 それが、フランちゃんがこの日美鈴に話す物語のタイトルだ。とてもおなかのすいた男と、その男に捕まえられるウサギの話。その短い話を聞き終えて、美鈴が言う。

 

「ずいぶんまた……気持ちの悪い話ですね。好きですけど」

 

 フランちゃんの作った物語を美鈴が好きになったので、ゲームはフランちゃんの勝ち。その逆だったら美鈴の勝ちで、フランちゃんの負け。勝者は目の前のお皿からビスケットを食べることができる。


 タノモウスさんの『地下室をつがいがあるく』はそうやってはじまり、だいたいのところ、そうやって終わる。フランちゃんは最後まで地下室から出ないし、やることといえば、お話を作るか、お話を聞くか、おやつを食べるか、ジュースを飲むだけ。

 もう一人の登場人物である美鈴もほぼ同じで、話すか聞くか食べるか寝るかしかしない。とても狭い世界の、とても地味な話だ。文章の容量は32KB。これは東方創想話の基準で言えば中編と呼ぶ人もいるかもしれないけど、世間並みで言えば短編か、もしかすると掌編のサイズだ。こんな短い、動きのない話で、作者はいったい何を伝えたいんだろう?

 

 少し『地下室をつがいが歩く』を離れて、タノモウスさんの東方創想話でのデビュー作を読んでみる。

 『かぞくと革命家、それと上の名前』は、チルノメディスン・メランコリーの話だ。『地下室~』と同様、こちらも会話シーンからはじまる。湖岸に腰掛けて足を水で濡らしているチルノに向かって、メディスンが話しかけてくる。タイトルの、「革命家」とはメディスンのことだ。彼女は生まれたばかりの妖怪で、人間に対する人形の地位向上を目指して革命を志向している。メディスンと話すチルノは、会話の中である疑問をおぼえる。

 

メディスンは、どうしてメランコリーなの?」

 

 お前は誰だ、お前という存在は何者だ……とか、そういう哲学的な問いを、チルノは言っているわけではない。ただ「ふうん。家族も居ないのにファミリーネーム?」というふうに、生まれたばかりで家族もいないメディスンにファミリーネームがあることについて、素朴に不思議に思っただけだ。それについてメディスンはこう返す。

 

「ねえ、何でそんな事私に聞いたの?」

 

 問うチルノに問い返すメディスン。ここでこうして、問いと謎の無限回廊が発生する……というほどおおげさなことではないけれど、つまるところ、このお話は、この二つの問いをめぐる物語になる。

 おおざっぱに言わせてもらえば、タノモウスさんの作品はわりとこんなふうなのが多い。まず、誰かが何かを疑問に思う。すると、それを考えるにつれて新しい疑問が出てくる。それを考えているとまた次の「不思議」が出てくる。するとまた……というふうに、疑問は連鎖し、謎は拡散し、それでもひとつずつ花びらをはがすようにその謎は解決され(あるいは気にならなくなり)、最終的に最初の「問い」に対する「答え」が提示される。それで物語は終わり。

 

 第二作の『映画虫はin the rain』は、紅魔館の妖精メイド(妖精門番)が、「自由とは何か?」について思い悩む話だった。三作目の『未成年に酒はいらねえ』はえーっとごにょごにょ……メリーと蓮子と、隣の部屋の桜田さんが料理をしながらミュージカルをする話なんで、疑問も問いもへったくれもないんだが、まあ、「青春とは何か?」みたいな話と言えなくもない(強弁)。

 さて、それでは、そもそもの今回のレビュー対象作品である(つまり、評者のもっとも好きな作品である)『地下室をつがいが歩く』は、どんな「問い」からはじまるのだろうか。

 

 

 地下室。フランちゃんは先ほどの「つがい」の話につづいて、「ブリキ人形」の話をする。すると、今度は美鈴はちがう反応を返す。

 

「……うーん、微妙。そこまで行くと、二人が幸せになる必要なんて無いんじゃないですかね」 

 

 それを聞いてフランちゃんは思う。

 

 何がだめだったんだろ、と私は拗ねる気持ちを抑えながら考えた。頭をカリカリ掻いて考えたけども、答えは見つからなかった。  

 つがいの話は良くって、ブリキ人形の話が駄目な違いが分からなかった。でも、私は美鈴に理由を聞かなかった。

 

 その日、疑問は解決されないまま、美鈴はそうして帰る。ひとりきりになった地下室で、フランちゃんは考えつづける。何がだめだったんだろ。
 問いは花びらのようにひろがる。
 美鈴はいったい、どんな話が好きなんだろう。
 私はなぜ、美鈴にお話を聞かせるのだろう。
 私が物語を作るのはなぜだろう。
 そういうことを、少しずつ順番に、フランちゃんは考えていく。

 

 この「問い」に、どんな答えが与えられるのか。それがこの作品の一番の読みどころで、一番美しいところだと思う。フランちゃんと美鈴は自分たちの作った物語を話し、聞き、時には語り手と聞き手の立場を交換しながら、少しずつフランちゃんの頭の中に、「問い」の答えと、美鈴という女性の(少女の)像が形作られていく。

 これは「物語」を作る動機の話でもあるし、それを聞く・読む我々の心の中で、何が起きているのか、を巡る話でもあるし、またはフランちゃんと美鈴という二人の少女のコミュニケーションの話でもある。

 それが『地下室をつがいが歩く』という美しい話の中身で、タノモウスさんが我々に語る「物語」の内容だ。そしてそれは、何らかの「お話」を作って、発表して、誰かに読んでもらうことを楽しみにしている――そうせずにはいられない――私たち自身の話でもある。

 

 フランちゃんはいったい、どんな「答え」にたどり着くのか? 作品の終盤のすばらしい盛り上がりは必読だ。良質な「答え合わせ」の興奮がそこにはある――けれど最後には、答えきれない何か、フランちゃんには(そして私たちには)つかみきれない「つがい」の何かがまた、そこには残されてしまう。

 フランちゃんはきっと明日も物語を作るだろう。頭の中でぐるぐると、「つがい」のことや「ブリキ人形」のこと、「ウサギ」のことや美鈴のこと、美鈴の話す言葉のことを考えるだろう。地下室の壁はそんなフランちゃんの想像するイメージで満たされるだろう。それは陰鬱な、血なまぐさいイメージかもしれない(フランちゃんの話も美鈴の話もとにかく暗い。ただ、それはとても美しい)。そして、そこにはまた「何か」が残される。その残される「何か」のために、私たちはまた「物語」を作るんだろう――どうも、ポエムになってしまって恥ずかしいけれど、そういうことを思わせてくれる作品でした。