『優雅に遊ぶ早苗さん』

▼作者:ギョウヘルインニ
▼発表形態:産廃創想話イミテーション
▼登場キャラクター:東風谷早苗
▼容量:11.49kb

▼参考URL:http://thewaterducts.sakura.ne.jp/php/waterducts/imta/?mode=read&key=1326994512&log=2

 

 

 産廃創想話という場所をご存じだろうか? オリジナル、二次創作のイラストやSSにはそれぞれの分類がある。全年齢、R-18、R-18G……等、ピクシブやその他、イラストのSNSではこのように分類されている。東方SS界隈で言うならば、それぞれが創想話、夜伽話、そして産廃創想話に大別することができる。R-18G、つまりグロテスクな要素を含む作品群である。
 産廃創想話、WATERDUCTS入り口を訪れた人は、(現在では以前流行ったクッキークリッカーの流行の際に変更されているが)「アリスちゃん、×××匹目~(ポチャ) ×××匹目のミミズジュースだよ」(現在見れないためうろ覚え)というカウンターに度肝を抜かれた覚えがあることだろう。中には絵版と産廃創想話、二つの中心的コンテンツがある。現在でも絵版は頻繁に更新されており、以前であれば批難の的になったような(近頃は許容されてきた感もあるが)グロ、スカトロ、虫、女装、ホモ、諸々……のイラストが見れる。産廃創想話における、こういった作品群への批難から逃れる避難所とするために、自らを「産廃」と名乗る文化は生まれたように思う。

 さて、絵版がそうであるように、産廃創想話もグロテスクなものが並ぶ。更に言えば、物語としての体を成していないものも多い。支離滅裂、作者が作中に出張ることも稀ではなく、単純に稚拙だと思えるものも沢山転がっているが、産廃に来る人間はそういったものを求めていないように思える。お綺麗な、整った文章と物語は本家の方で楽しんで、どうぞと言わんばかりの態度を感じる。しかし、僕はこの産廃創想話に独特の風情を感じる。無理矢理高めようというわけではない。どうあがいても稚拙でどうしようもないというものもある。だけど、物語の形を整えなくて良い、という空気が産廃にはあり、そのため、より本能的な、「自分の書きたいもの」が見えてくるように思う。誰しも批難はされたくないものだ。だけど、好きなものがマイノリティの故に、どうしても叩かれる部分は出てくる。特に二次創作であればその傾向は強い。元々原作の借り物のキャラクターを殺したりひどい目に合わせるとはどういうことだ? だが、例えば東方であれば、妖怪と人間、捕食者と被捕食者という要素があるのだから、そういった物語が生まれるのも当然と言えば当然であり、そういった作品の受け皿があっても良いのではないか? 僕はこの産廃創想話が、閉ざされた地下室のような場所だとしても、そこにいる人々は、解き放たれたようにさわやかにすら感じる。


 さて、前置きが長くなったが、今回紹介する作品は「優雅に遊ぶ早苗さん」作者はギョウヘルインニ氏。ギョウヘルインニ氏は、本家東方創想話でも作品を投稿しているため、名前を知っている方もいるだろう。ギョウヘルインニ氏が産廃創想話出身というだけで、作品は特に変わったところもないのに、叩くコメントを見かけたことがあるが、近頃では減ったように思う。産廃創想話への許容が広がったというより、産廃そのものを知っている人が減ったような感じを受ける。ギョウヘルインニ氏は本家ではその爪を隠しているが、産廃の頃のような風情を味わうことはできる。だが、ギョウヘルインニ氏の魅力は、やはり産廃でこそ、だと思う。特に「ほのぼの」を推察する「ほのぼのシリーズ」(と僕は勝手に呼んでいるが)名シリーズだと思う。『「ほのぼの」していることが本当によいことなのか?そして、ほのぼのは一体どこにあるのか?』ある意味、残酷なことが起こらない本家創想話へのアンチテーゼであり、「ほのぼの」の価値を重要視するSS界隈への反論でもある。そういった大層な意図はおそらく、ギョウヘルインニ氏は意図していないだろうけれど、氏がSS界隈に感じた生の空気を、そのまま味わうことができる。これは産廃ならではだと僕は思う。
 中でも、「優雅に遊ぶ早苗さん」はギョウヘルインニ氏の作品の中でも、いっとう素晴らしいものだと僕は思う。
「早苗調子に乗ります!」と叫び、早苗は神奈子と諏訪子のいる部屋に手榴弾を投げ込む。そして爆散して二人は死ぬ。このスピード感と唐突なグロテスクさ、さらに言えばそれが全く自然に現れることが僕は全く産廃らしいと思う。ここで言う調子に乗る、ということは原作における「幻想郷では常識に囚われてはいけないのですね」と同義であると見て良い。その結果としての神殺しに繋がっている。
 少し長いが、このもっとも氏の素晴らしさがストレートに出た、引き込まれる序文を、引用しておきたい。

 

「早苗調子に乗ります!」


 とある朝のひと時、早苗さんが手榴弾を持って諏訪子と神奈子がいる部屋に投げこんだ。その手榴弾は美しい放物線を描いて、二人の前に落ちた。突然の出来事に何も理解できない二人、あっという間に15秒が過ぎてしまった。早苗さんは二人がどんな風に挽肉になるのか想像すると、とても楽しいひと時だった。
 育てて貰った恩義、守屋の巫女として幻想郷で過ごした日々、そのすべてが早苗さんにとってかけがえのない日々だった。
 しかし、それも今日で終わる。手榴弾は美しくも儚く炸裂したのである。二柱は無数の肉片になった。

「早苗ばいばい」
「ばいばい早苗」

 炸裂する瞬間かその後に、早苗さんの都合のいい耳には確かにそう聞こえた。それは、二人の最後の言葉だったのかもしれない。もしくは、早苗さんが散っていく二人の顔を想像しながら自分で作り出した幻聴だったのかもしれない。でも、それは確かに聞こえた。

「いままで、ありがとうございました!」

 爆煙が燻る中、飛び散った肉片に向かい早苗さんは一礼をして神社を出て行った。僅かにも残らないその気持ちを抑える気持ちは無く、金に成りそうな物を持ち出した。悲しくもそれでいて新しい発見がありそうな旅立ちだった。早苗さんは神社の外まで来るとを最後になろう景色を一瞥する。そして、美しくもその口からカーッとタンを吐いた。タンは、石畳を汚した。それは、神社との決別を意味する物だった。最後にもう一度一礼して神社を出た。
 山はいつもの風景だった。変わったのは、早苗さんと神社だけだった。澄み切った空気を、全身で感じながらこれからどうしようかとも考えない。唯、楽しいと思ったことをするのみなのである。
 二柱の庇護を失い奇跡は起こせなくなった。巫女として成熟しきった早苗さんには、むしろその力を阻害する足枷になっていたのである。

 

 

 グロテスクさ、また展開の早さはさておき、実に整った文章ではないだろうか?出版社から出ている、一般の小説と比べても遜色のないような文章の流れだと僕は思う。また、出版社から出ている小説と言ってもピンからキリだし、SS業界のレベルも相当に高いと僕は感じるが、東方創想話、あるいは産廃創想話においては特別卓越した文章だと僕は見る。


 さて、親代わりたる二神を爆殺した早苗は、雛をガムテープでぐるぐる巻きにして燃やし、頭のおかしくなった慧音先生が生徒達の首を並べて授業をしているのを見、貧民街で生きる為に有機物なら何でも食べる聖と戦い、傷を治すために阿求をレイプして房中術を行い、海賊をしているチルノとアリスが戦う夢を見る。これらの展開は唐突で前提など無い。だが自然と受け入れられる。早苗や、我々が見るような一般社会の「常識」など、幻想郷にはないのだ。早苗が二親たる二神を爆殺した以上、早苗は自由に過ごしてゆく。
 ここで魅力としてあげたいのは、アクションシーンに加えエロティックなシーンまで楽しめるということである。「優雅に遊ぶ早苗さん」はたった11kbの作品であり、この短い中にこれだけの要素が自然に詰め込まれているのは珍しい。

 そしてラストのシーンであるが、永遠亭で眠って夢を見ていた早苗は、狂った慧音先生に首を落とされるシーンで終わる。だが、早苗は慧音先生の授業を受け、自分の首でサッカーをする後日談が最後についている。何とも朴訥で自然的で、グロテスクなラストだろう。早苗は死さえも乗り越えた。そこに何の理由も説明もないのが、また潔くてよいのである。更に言えば、この「優雅に遊ぶ早苗さん」は「優雅シリーズ」とでも言うべき、早苗さんが優雅なシリーズの第一作であるのだが、次作以降で首を切られたことに対する説明はない。それもまた、いいのである。グロテスクは時にコメディチックになることがあるが、この物語のラストもそういう風に見れる。「優雅に遊ぶ早苗さん」は、読者を置いてゆく傾向はあるものの、読むたびに不思議な感動を与えるのである。
 この物語が、もし稚拙な文章で描かれていたなら、凡百の一つに成り下がっていたであろう。だが、氏の描写は一つ一つがいきいきと描かれており、物語を素晴らしい出来にしている。産廃作品であり、グロテスクな要素もあるため、人には勧めづらいが、僕はこの作品の価値を疑わない。物語として見るならば、短いながら要素が沢山詰め込まれ、そのくせ読みやすい素晴らしい掌編である。

 産廃作品であり、グロテスクな要素が苦手な方にはオススメしないが、耐性のある方は一読をお勧めする。