『処女膜の方向性の違いにより解散しました。』

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▼作者:蛮天丸、アン・シャーリー、生パン
▼サークル:蛮天屋
▼発表形態:同人誌
▼ジャンル:処女 哲学
▼登場キャラクター:メリー 蓮子 その他いろいろ

 

収録作品①『喪失と忘却の話』(アン・シャーリー

 
 アンさんらしい文章にまず安堵。おはようと死ねが同じ軽さで繰り出される、ギャグとシリアスの混ざり具合。普通なら分離しようとするものだけれど。こういう覚悟させない空気を是とできる感性は流石としかいいようがない。
 
 このお話を感覚としてまとめるとこうなった。
 
「すごく狭くて圧力の高いところからスタートして、急に広がって拡散して、あれあれこれってどこへいくのと思っていたらいつのまにか最初の圧力に戻ってた。そこはスタート地点か? 知らぬなり」
 
 何を言っているのか(ry。
 説明すると、たぶん最初の狭いっていうのは、肉体に関する諸々なんだと思う。やらはたとか、レイプとか、交番とか。でも狭い中だからこそ高い濃度を保っているのが、蓮子の苦悩とかトラウマ。一方メリーはだいぶ薄まっている感じ。解放されているというと安っぽいかもしれない。
 作中で蓮子はすごく窮屈そう。見ていて辛い。でもその蓮子がすごく伸び伸びとしているときがあって、それがあの夢の話。やっぱり解放っていうと安っぽい感じがするからなんか嫌だけれど、あのときの蓮子は自由だった。辛いんだろうけれど、自由なんだなって思った。
 つまり噴水みたいな感じ。四方八方をやらはたとかレイプとかに囲まれてぎゅうぎゅうになっている蓮子だけれど、上にはなんの制約もなくて、夢の話をしたとき、蓮子の心は噴水みたいに空へと広がっていった。
 そういう方向性を持っていた蓮子とまるっきり逆なのがメリーで、ぼんやり薄まっていたのが蓮子に収束していっている感じ。綺麗なのは、高くなったメリーの圧力を囲んで保持しているのが、やらはたとかではないってこと。つまり愛とか、幻想とか。
 アンさんの話は、多次元的というか、一方向では強い拘束を受けているからとても素っ気なく見える。でもちゃんと制限のないとても自由な方向をアンさんは残していて、そこへ向かって心とか思いとかがジェット流みたいに突き抜けていくような感じ。だから最初は狭いのに、急に広がる。
 で、そのままだと広がって広がって薄まって薄まって結局どこにも行けない話になりそうなんだけれど、そこは流石アンさんで、不思議と圧力が元に戻っていく。この戻っていく過程は本当にうまく言語化できない。ただふっと、もうそろそろ帰らなきゃっていう軽さで二人は戻っていく。
 二人で戻った場所が最初と同じかなんて考えることすら無粋なんだろうけれど。でもちゃんと話が落ちて、それが清々しく感じられるのは、作者の腕だと思うんだ。
 
 で、そろそろメインである処女膜の話をすると、処女膜って突破口というか、拘束の穴だと思った。穴が開けば広がって薄まっていくのは同じ。でも処女膜は、蓮子が夢の話で広がっていった空とは違う方向を向いている。カッコつけて表現すると、処女膜と恋のベクトルは直交している。
 ここらへんの解釈は、正直まだ自分の中でまとまってない。処女膜と恋は直交していて、かつ一点で交わっているのか、いないのか、とか。つまり少女にとって、女性にとって、処女とは何か、何だったのか。その答えは過去に向かったメリーと、メリーを止めた蓮子に繋がっているような気がするんだけれど。
 
 あと、このお話、イラストが、すごく、いい。すごく、いい。大切なことなので二回言いました。
 画風が私好みということはもはや前提であるとして、まず扉絵。マーヴェラス。この上なく自由な構成とか蓮子の股の間の水の表現とかに目を奪われがちだけれど、見逃しちゃいけない。表情がいい。すごく、いい。
 次に挿絵。挿絵見てこんなに困惑したことなかったかもしれない。だって、その絵が具体的にページのどの行を切り取っているのか、すぐにわからなかったから。大正解だと思う。挿絵の文は重くなる。読者が頭のなかで勝手に絵と結びつけて、重くしてしまう。アンさんの軽さに、そういう重さは似合わない。
 そして挿絵は扉絵と打って変わって、凝った構成はなく淡々と人物が映っているだけなのね。でもそれで十分だった。だってこれは、徹頭徹尾、二人の話で。百の言葉で一つの表情を重く語るよりも、挿絵を一つ添えたほうがよほど謙虚で美しい。
(これは文章の限界とかではなくて、表現のバランスの問題。アンさんの描写がどうとか、そういうのではなく。)
 
 というわけで、すごく面白かった。面白かったのは、文だけでなく絵も! すごく! 面白かった! ヒャッハー!
 
 
 

収録作品②『ブルー⇔ムーン』(蛮天丸)

 
 これは、感想が難しい。砂糖菓子より難しい。解釈を当てはめた瞬間、全部跡形もなくメタメタに溶けてなくなっていきそうな気さえする。
 
 このお話から感じ取ったことをまとめると次のようになる。
 
処女厨は自身の罪を数えろ」
 
 うん。処女厨という表現はきっと適切じゃない。処女膜合同を手にとった人みんなが処女厨だなんていう気は毛頭ない。でもさ、処女膜合同なんだ。それを読もうとする人は、きっと多かれ少なかれ自分の中の処女観があって、個人差はあれど処女に意味と価値を見出していると思うんだ。 
 私にもそういうものはある。だから「さあこの話ではどっちが処女かなー。どういう風に処女が失われちゃうのかなー(愉悦」という気持ちがあった。私なりに処女膜合同を楽しもうと意気込んで、この話を読んだ。そして読み終わった。
 もうね、説教食らったみたいに心がへし折れましたよ。「おまえ、何様のつもりだよ」と。幻想で彩ったハンマーで、撫でられるみたいに殴られましたよ。しかもその感触が読み返してようやくわかったというね。
 胸に手を当てて、反省しました。処女だ破瓜だと独り善がりな観点をもって、処女膜合同を読んだ。しかしそれは、あんまりな偏見だった。私は、読んでいる最中、メリーを処女かどうかで見ていた。メリーがメリーであるかどうかより先に、処女かどうかを考えていた。それが処女膜合同だったから。
 なるほど、確かに破瓜は一つの象徴で、女性にとって社会にとって私達にとって特別な何かであると、そう思わせる魅力に満ちている。しかし忘れてはいけなかった。破瓜させるには、私達が破瓜を楽しむには、彼女は処女でなければならない。そして破瓜に、二度は無い。
「処女とは何か」
「破瓜は美しい」
「やっぱり処女に限る」
そういう思考や嗜好が、処女の価値を高めている。処女という女性が等しくもつものに、何かの意味を見出そうとする。けれどそのとき、処女膜は女性から取り上げられている。
 ブルーとムーンの距離は、そのままメリーにとっての処女への距離だったように思える。ずっと遠かった月へとメリーは連れて行かれて、そのとき、手元になかった処女と破瓜の両方を突きつけられる。清算されていなかったことを一度に清算された。そしてそのまま、ブルーへと帰された。
 そして何も言わずに消えていった蓮子を見て、処女厨って傲慢の極みではないだろうかと思った次第です。処女に拘るということは、処女を強制するということ。処女膜を取り上げるということ。自分のものでないものを、初夜にいきなり相手に渡して、失わせる。端的に言うと、こういうことなんだなって。
 でもそれは思考し嗜好していた破瓜なんだろうか? 破瓜は、もっと自由で、甘酸っぱかったりするものだと思っていなかったか? そんな拷問じみた思考実験で表現されるものだったか? 自問自答が頭のなかをグルグル。
 そして破瓜のあと、処女でなくなったメリーを見て。月の水を浴びて呟いたメリーを見て。処女でなくなったとしてもその人が消えてしまうわけじゃないのだと痛感しました。二人は幸せなレズセックスをして終了なんて甘いオチは用意されてなかった。
 当たり前の事実を、ただ提示されただけのこと。でも酷いエゴを鏡で映されたよう。もう骨ックスが堪能できただけで十分ですから、メリーに処女を返したい、もういちど自分のための破瓜をしてほしい。破瓜に二度は無いと分かっていながらそんな身勝手なことを思いました。
 そこで、最後のシーンですよ。ムーンで、ブルーに、メリーが祈るんですよ。
 
「今まで手に出来なかったものを、取り返すために生きていく」
「あなたが好きだから」
 
 わたしはこれで、完膚なきまでに許されないと悟りました。自分が処女厨として歪んだ見方で物語を見ていて、それをぼろくそに見せつけられて、それでいて最後に処女と破瓜の美しさを魅せつけて終わるなんて、なんて酷薄な物語なんだと。
 しかしこれを読んでなかったら処女膜合同を同じ傲慢さで読みきって「やはり破瓜はよいものだ」としたり顔でいっていたと思うと……処女膜合同の主催の思慮深さに脱帽しました。
 
 ああ、本当に、破瓜はよいものだ。
 
(なお、この感想は私がツイッターで呟いたものであり、私の呟きのあとで作者様自身から解説を頂きました。興味のある方は是非検索を。)
 
 
 

収録作品③『びいどろ玉のおはなし』(生パン)

 

 これは……なんだろう。生パンさんはオペオペの実の能力者か何かかしら。おはなしが、切り開かれて解剖されて内臓とかもろもろが見えているのに、見えない管でつながって生きているみたいな感じ。

 しかし話自体はわかりやすい、と私は感じた。


 このおはなしを読んで思ったことをまとめるとこうなる。

「処女は入口であって出口ではない」

 思い出したのは、処女とか破瓜とかって、セックスの一部なんだよね、ということ。処女膜合同を読んで処女とは何ぞやということをいろいろ考えたりしたけれど、じゃあセックスって何かしら、と問われると、さっぱり答えられない自分に気づく。
 そして「かく言う私も童貞でね」な私がセックスについて語るなど噴飯モノなので、ここでこれ以上突っ込めなくなるという悲しい事態が発生。
 それでも知ったかで語ると、セックスには二つの面があって、純粋に非言語のコミュニケーションであるということと、あとは社会契約の一つであるということ。
 そしてこのお話における処女要素が、セックスの社会契約に関することに集約しているんだけど、これはあんまり語ることないような……。
 社会契約なんてカッコつけて言ったけどこれってつまり貞操のことで、蓮子が指摘している通り、昔は避妊技術が未熟だったので望まない妊娠を避けるいみで貞操を守ることが良しとされてきたし男も女に貞操を求めた。これが「やはり処女に限る」の社会的側面。で、避妊技術が改善されてきたので貞操という社会的欲求が減ってきて、非言語のコミュニケーションという面が割合を増やしてきたのが現代と未来。そしてコミュニケーションという意味では貞操を守って極小数の人としかセックスしないのは正しくない。会話は少ないよりも多い方がいい。
 というわけで、非言語コミュニケーションと社会契約の正義は真逆なので作中のくそやろうみたいな悲劇が生まれる。言い方とか性根とかいろいろ言いたいことはあるが、くそやろうの感情はセックスが貞操と結びついている限り妥当なのね。
 私がこのお話で特に興味深いと思ったのは、社会契約のほうではなくて非言語コミュニケーションのほうのお話。もっと言うと液体と固体の話。
 非言語のコミュニケーションというのは、作中でも蓮子が言っていたとおり「お互いのことを知りたければ、セックスするのが早い」ということ。実際そうなのかしら? 私にはわかりませぬ。でもまあ、何かしら交換される情報があるのでしょう。そしてその交換される情報は、液状なのだと思う。
 作中で何度も出てくる液体や固体、びいどろというのはとても面白い表現だと思った。とくにびいどろ。セックスで交換される非言語の情報。この非言語と液状というのがとてもすんなりと結びついて頭に入ってきた。
 言語がデジタルで分離できる情報だとすると、非言語はその逆なのね。
 固体なら混ざっても分類すればいいけど、液体は混ざってしまったらずっとそのまま。遠心分離にでもかけないと分離できない。混ざったままというのはつまりとても複雑に情報が絡み合っているということで、これって人間の精神に近い状態なんじゃないかしら。
 人間の精神というか思考が複雑なのは言うまでも無いことね。知的な思考はもちろんのこと、感情も複雑だし、人体という分子機械を制御しているのだってすごい複雑。脳はこの複雑なもろもろの思考を同時にしているわけだ。そしてそれらは独立ではなく関係しあっている。(例えば今私の中に「悲しい」という感情があるとき、それと「空腹」という体の状態およびそれに付随する飢餓感は決して無関係にはなれない。)
 どれだけ人間が知的で精神的な活動をしても、血と肉と糞のつまった肉袋であるという因果からは逃げられない。
 でもこれが小説のキャラとかになると話が違ってくる。作中のキャラが何かに悲しんでいる時、そのキャラは血と肉と糞の詰まった肉袋だろうか。私達はそうだと認識するべきだろうか。たぶん違う。私達は、一人の人間が純粋に悲しんでいる状態を見る。
 このいわば純粋な精神状態が、作中の遠心分離にかけられた液体、そしてそれがパッケージ化されたのがびいどろ、つまり固体のような液体なのではないかしら。(パッケージ化ってついノリで言ってしまったけれど、これってどういう意味だろ? 肉体が仮想化された思考?)
 液体がそういう不可分な情報だとするなら、セックスは仕分けされていない(創作されていない)生の情報をやりとりしているのね。
 作中だと液状化した蓮子にメリーが嫌悪感をもっていたり、撒き散らされた液体が腐敗臭を発しているといった表現があるけど、これって生の情報をやりとりするのは抽象されていないという意味で知的ではないしスマートでないって意味ではないかしら。
 けれど、それを求めちゃうのが人間だし、それが必要なのも人間だし、だから人はセックスを(コミュニケーションとして)するのかしら? と思った次第。
 そしてそのとき、処女は社会契約にあるような貞操の証明なのではなくて(私達の思考対象あるいは嗜好対象でもなくて)、破瓜はセックスというコミュニケーションの世界への第一歩という至極前向きな側面が見えてくる。

 Welcome to Sex!
 非言語の世界へようこそ!

 みたいな。

 

 いろいろ賢しらにぐちゃぐちゃ言ったけど、つまりすっごい面白かった! 処女膜合同最高!