『不可能な境界 Rewrite』

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▼作者:春日傘氏
▼サークル:雅趣雅俗
▼発表形態:同人誌

 

はじめに
 
 僕は、前々から同人界隈の感想の言い合いというものが苦手で、とはいっても同人作品のレビューや感想のホームページや掲示板を見つけたこともなく、ツイッターで感想を言い合う程度の場面に居合わす程度だけど、どうにも苦手だ。褒めなければいけない、という圧力をどこかで感じてしまう。そうした圧力に負けて、無難な感想を言ったことも、僕自身ままある。それで、その代わりが、このような匿名のレビューサイトということに、微妙に気後れも感じているが、ともあれ、僕が言いたいのは、もっと感想とは自由であるべき、ということである。だが、理由もなく、『好きでない』『良くない』と言いにくいのも、またそれはそれである。そして、良くないことに理由をつけて、順序立てて喋ることのできる人は、僕の周りではあまりいない。そも、同人作品に労力をかけて、得られるものがあまりない、というのもあるが、誰もしないのならば、僕は無論専門家ではないけれど、できる限り真摯にやろう。と思った限りである。  故に、僕のレビューには、時に心を痛めるような事柄が現れ、重箱の隅をつつくような細かい指摘が入ることも、あるかもしれない。だけども、それは僕のやり方で、また、特定の作者を狙い撃ちにしているのではなく、同人やネット上の文章を見て、感想を書こうと思った限りは、誰彼なしに自由な感想を書いてゆこうと思う次第である。僕は誰のアンチでもない。誰かのファンであることはあっても、理由なしに褒めることも、けなすこともしない。ただけなすのではなく、僕は真摯にけなしているということに誇りを持ってやろうと思う。 「同人であるから」「やりたいことをやっていいところだから」という許容の精神を、僕はなるべく持たず、小説として物事を見ていきたいと思う。できるだけ客観的に見て行きたいとは思うが、僕も人間であり、また未熟さもたっぷりと持っているため、時に主観的な事柄も混じるだろう。更に、本来論文形式ならば充分に用意してしかるべき証明を、僕はほとんど持っていない。僕のすることは、本文をそれらしく引用して、できるだけ同意させられるように持ってゆくだけである。このレビューに反発したならば、僕の挙げた項目一つ一つに、反論し、それをレビューとして発表してほしい。ともかく、発表することである。発表することによって、界隈は広がるのである。批評家ぶった連中が顔を大きくすると、作家の方が呆れて放ったらかしてしまうものであるらしいが、僕は小説の界隈にも顔が利くわけではないので、深くは知らない。何にしても、言葉にしなければ存在しないのと同じで、言葉にするからにははっきりと言葉にしたいのである。  今回のレビューの題材に挙げたのは、「不可能な境界 Rewrite」(2013年12月30日頒布)である。Rewrite、とあるように、第二稿であり、初稿である『不可能な境界』とは内容が異なっている。初稿のほうは少数発行の同人作品故に手に入れることはできず、また単位や金のためでもないのに、そこまで労力と金はかけたくない、ということで、第二稿と初稿の内容の変化については、ここでは述べない。 また、この版は第二版であり、誤字訂正や組版の変更など、微妙な変化があるようだが、この点についてもここでは述べない。  今回のレビューは、良い点と、悪い点に分け、語ってゆくことにしたい。悪点から先に述べたい。
 
 
・文章が冗長である
 
 はっきりと申し上げると、読み進めるのが時折苦痛になることもあった。特に歴史上の人物が延々と一人語りする部分などは、一体何を言っているんだ、と思うこともあり、一言で言えば、非情に冗長だった。歴史に興味があり深く知識のある読者、歴史に興味がなく一般的な知識しかない読者の両方を惹き付けるための方策なのだろうけれど、悪く言えば、どっちつかずということでもある。軽く読むには重たく、深く考察して読むには歴史的裏付けがなく、浅い。東方の同人小説であり、歴史小説ではないが、裏表紙に『本格歴史小説風味』と銘打ってあるからには、東方独自の設定を活かした、日本史と東方の歴史的裏付けを深くやってほしいものである。紫が歴史に介入した、という程度にしか、歴史が必要とされている部分がないように思う。その割に、一人語りが長すぎるのである。  例えば徳川慶喜の、大阪城から船の上への移動や、坂本竜馬暗殺に八雲紫の暗躍があった、というのは、幻想郷と歴史の関わりを描き、歴史の闇の中に八雲紫がいたと示すことで、八雲紫のらしさが描けているように思う。が、話の展開として八雲紫の存在が示唆されるも、実際に行った行為を前もって示されないので、物語として惹き付ける力が少ない。八雲紫が実際に何をやったか、という点に話が向かって、ようやく面白くなるが、それまでが冗長である。  歴史的な語りの部分が魅力であるのに、冗長に感じてしまうのは勿体ない。
 
 
・物語の筋の繋がりが薄い
 
 
 この作品には、物語に3つの筋がある。未来における、蓮子とメリーの部分、現在における宇佐見蓮之丈と歴史人物の語りの部分、そして過去における八雲紫暗躍の部分である。時代的には、未来=不明、現在=明治31年、過去=慶応4年、となる。過去の部分は、明治31年における歴史上の人物によって断片的に語られる。そして、未来の部分、蓮子とメリーが過去の文献を発見し読む部分は、物語のプロローグとエピローグ的な部分に当たるので、物語の中心は現在……明治31年の宇佐見蓮之丈、及び歴史上の人物群になる。  僕が問題点として挙げたいのは、それらの繋がりが希薄である、ということである。現在における宇佐見蓮之丈は舞台回しの役柄であり、蓮之丈の、キャラクターとしての存在感は希薄である。蓮之丈は歴史への関わりに意欲を燃やすでもなく、新聞記者としての自分の立場について思い悩むばかりで、どうしてこのような人物が沢山の歴史的人物と関わり、また八雲紫と関わることになったのか、実に不可解である。一応、「時を固定する」という蓮之丈の能力が明かされることによって、一応蓮之丈がこの作品の主人公的位置に存在する理由が明かされるが、宇佐見蓮子の係累であるという意味合いもその程度でしかなく、宇佐見蓮子とその能力の一部が共通しているというだけで、宇佐見蓮子との意識的な共通点もない。宇佐見蓮之丈が、宇佐見蓮子の係累だという必然性も感じられない。  宇佐見蓮之丈がそのような人物であるから、歴史上の人物、勝海舟斎藤一徳川慶喜、更にこの物語の中での、歴史の一部という意味合いから言えば、八雲紫もそこに含まれることになるだろうが、彼らの語りは上滑りするばかりである。元々、蓮之丈は記者としての立場から逸脱することなく、語りにはあまり口を挟まず、ただ語るのを聞いているだけである。歴史改変ものの小説の技法を取り入れれば、「本来の歴史はこうこうであった筈では?」と疑問を差し挟み、読者の気持ちを代弁することもできるはずであるが、それもしない。そのため、歴史上の人物の語りが、ただ情報を並べ立てているだけのように感じるのである。宇佐見蓮之丈、あるいは宇佐見蓮子にしても、本来持つべき常識的な歴史認識を語ることもせず、その点も歴史上の人物達に任せている。  問題があるのは、宇佐見蓮之丈だけでなく、宇佐見蓮子の態度もである。宇佐見蓮子はメリーと一緒に何かができるということにはしゃぐばかりで、見つけた文献への興味もあまりない。秘封倶楽部秘封倶楽部のまま続いてゆく、というラストは、歴史の部分との関係性を見出せない。また、このシーンでのメリーの不可解な態度は、続巻がある、という話も聞いているので、そのことへの伏線に思えるが、それを含めてしまうとレビューとして成り立たせることができない。これはあくまで「不可能な境界Rewrite」のレビューである。なので、二巻以降で明かされることは、今は置いておくしかないが……このラストは、本編での歴史小説の気分を、一気に秘封SSの気分に変えてしまう。歴史小説として読んできた読後感としては、相応しくないと感じた。人物の語りが過大に過ぎるのに対し、この秘封の部分は少なすぎるのである。また、秘封組の二人の、歴史部分への関わりが浅薄に過ぎる。  続けて、美点について述べる。
 
 
 
八雲紫の「らしさ」がよく現れている
 
 
 作中で、「八雲紫は一つの理想」と語られる。「危険な女をモノにしてしまいたいという男の果てなき願望」(本分P165.8行)の顕現。この一文が、八雲紫を端的に示しているような感じがする。  八雲紫は、境界を操る力を持ち、幻想郷を形作る博麗大結界を作ることに大きく関わり、月に攻め込むことのできる強大な妖怪である。だが、積極的に姿を見せることはなく、裏側で様々なことを操っている感じのする、いかがわしい妖怪である。 「不可能な境界 Rewrite」では、八雲紫は幕末を舞台として、いくつかの歴史的事件に介入している。ともすれば諸外国の政治的、武力的介入を招きかねなかった当時の日本において、日本を守り、幻想郷を成立させるという目的の下、歴史の暗闇の中で暗躍する八雲紫は、実にらしいと思える。またその過程で、徳川慶喜勝海舟を手玉に取り、楽しんでいる様子も見受けられて、妖しいながら美しいらしさも垣間見ることができる。また、斎藤一を生き延びさせることで、斎藤に復讐する残酷さも持ち合わせている。  量子を超越するという最終目的の下に動いている八雲紫の語りは、正直に申し上げると何を言っているのかさっぱり分からない。そもそも、量子とか言っても、幕末の人間である蓮之丈に理解することができるのだろうか?事実、細かなことは理解していないように思えるし、無言で聞き過ごしているばかりである。そのくせ、八雲紫との会話は成立しているので、全くわけが分からないまま置いて行かれてしまう。そういうわけで、話の流れは分からないが、この何を言っているのか分からない感じも実にらしい。幻想郷を残すことも目的であるようだが、八雲紫の考えははっきりと伝わらないことも良いと思える。このわけわからなさが八雲紫であるとも思える。  らしい、らしい、と連発しているが、「らしい」や「っぽい」は大切な感情である。二次創作においては、原作らしいと思えることは重要なことだからである。原作の、八雲紫「らしさ」を、幕末の世に織り交ぜて登場させているように思う。
 
 
・歴史がよく描けている
 
 勝海舟が日本と諸外国の情勢を語り、斎藤一が功労者である坂本竜馬を語り、徳川慶喜が自身の将軍就任の経緯と決断を語る。この流れは、作者が東方とは別のところで、描きたかった部分だと感じる。実際よく描けており、その部分では作者の意図が達成されたと見るべきだろう。しかし、歴史ものとして見るには浅く、東方として見るには分量が多すぎるのは、前述の通りである。歴史が描けているのは美点ではあるが、歴史を読むには専門書がこの世には数多くあると思うのは、傲慢であろうか? 無論、歴史や文化から引き出して、自分なりの感覚で、他の歴史、文化、あるいは東方要素とミックスすることは重要なことである。前述の通り、僕が問題視しているのは、冗長に過ぎるということである。
 
そのほか 
 
・挿絵について
 
 挿絵についても言及したい。表紙の八雲紫の絵は、八雲紫のいかがわしさを存分に伺わせていて、実にすばらしい。中の挿絵についても、概ね文章の雰囲気を醸し出す良い挿絵である。だが、10ページの蓮子の絵は、必要であったのか、という感じがする。ここで蓮子の顔、表情、姿を絵として描いておくことに、物語の本編と、何か関係があるだろうか。同人小説なので、「作者がやりたかっただけ」という価値観が通用する世界ではあるし、一枚でも挿絵があるとお得感がするのかもしれないが、小説の一部分として評価すると、そういうことになる。  27ページの、塔の上に立つ八雲紫の絵はとても良い。風景の中に八雲紫が溶け込んでおり、どこか不安にさせると同時に、うら寂しさもある。  59ページの八雲紫登場の図はとても効果的だと思う。これまで語りの上でしか登場しなかった八雲紫が、現実の宇佐見蓮之丈の目の前に姿を現すということを、文章と絵で同時に表していて、臨場感が生まれている。  136ページの八雲紫斎藤一のイラストは、悪くもないが良くもない。向き合っているという構図は良いが、表情や風景がないため、どこか間抜けにも見えてしまう。  272ページの蓮子とメリーの挿絵は、前述の理由からメリーの態度が不明瞭であるが、まあ、不安感を残すという意味合いで、悪くはない。
 
 
・もくじについて
 
 もくじがないことは不満である。勝海舟斎藤一徳川慶喜には小さな段落がある。この部分にすぐさま行けるように、巻頭にはもくじを置いておいてほしいところである。
 
 
・文字間について
 
 これは僕の感じで、実際はどうか分からないが、文章の文字と文字の間が、狭すぎたり広すぎたり(微妙なところなので、よく分からないが)する感じがする。そのせいで、なんというか……言葉にするのは難しいが、読みづらい。
 
 
 終わり
 
 端的に言ってしまうと、僕が言いたいのは、主人公である宇佐見蓮之丈の態度である、ということになると思う。物語の形式が主人公である蓮之丈の手記という形式を取っているからには、蓮之丈の行動を追ってゆく形になる。結論が「記事を書こう」というのはまあ良いとして、勝海舟やその他の人物に聞かされた事柄に対し「こんなことは記事にできない」と言うばかりで、どうにか記事にしてみようかと努力をしただろうか。流されて、話されるがままに聞くばかりで、その行動も、八雲紫に知らずのままに操られていた、というのなら、それもまた八雲紫の底知れなさがあって、良いかもしれない。せめて、蓮之丈が記事にしようと残した文章であるが、提出せずに残しておいた、という形なら納得できたかもしれない。扱っている題材が良いのに、読者と作家の橋渡しをする主人公が語るべきことを語らない、心情として読者に寄ることもない、というのは、勿体ないばかりである。  言いたいことがあるにも関わらず、物語の筋を追わず、美点と悪点について述べてきたため、散文的なレビューになったことと思う。また、引用も少ないが、これは一つ一つ挙げる手間を省いたためである。印象的な語りに終始しているが、言いたいことは伝わると思う。また機会があればテーマを絞って語ることとしたい。  読者として拙い部分があり、また、論文としても穴が多いことと思う。そのため、反論があれば、レビューという形で語って頂きたいと思う。先行研究に対する反論から、新しい研究が生まれるものである。僕はこれからも気が向けば語って行きたいと思うが、あらゆる感想や研究が増えることを望むばかりである。