『映画と秘封と秘封と猫と猫と秘封と秘封と映画と』

▼作者:スポポ氏
▼発表形態:東方創想話(作品集139)
▼登場キャラクター:宇佐見蓮子 マエリベリー・ハーン
▼ジャンル:SF 幻想

 

 

 これは、実に奇妙な作品だ。
 いや、むしろ奇怪な作品と言いきってしまった方が良い。たぶん。
 
 ここまで書くと、東方projectの二次創作というフォーマットの中で語るには言葉の使い方が少々適さないというか、何がいったい奇妙で奇怪なんだと思われるかもしれない。元より東方projectというのは――幻想郷というのは、現実の世界、現実の歴史で非現実的だとみなされた“落ちこぼれ”どもが最後に行き着いた掃き溜めのようなものだ。日々、pixivで“慧音 R‐18”タグを検索しているから解る。俺は詳しいんだ。ともあれ、そこではいかなるシチュエーション、非現実性も過たず許容される。紅い霧が空を覆い尽くそうが、春度が亡霊に奪われようが、MURABITOさんによって早苗ちゃんのお尻の皺の数が二十一本だと証明されようが、である。
 
 つまりは、幻想郷は幻想郷であるという事実により、人間の想像力の具現化がほぼ無制限に担保され続けるフィールドでさえある。元より、そこは現実によってその跳梁を否定された幻想、想像力の産物たちが最後に行き着くねぐらなのだから。
 
 そう、言うなれば――あらゆる想像力の許容、幻想が存在することの担保、ということは、いかなるバカバカしさをも許容し続けるという、ある意味での虚しさの営みである。そこではきっと、どんな下らぬ理由でさえ戦争の原因となり、いかなる正義の戦争でさえくすぐったい平和の礎と化すことだろう。あらゆる想像力の現実への容喙を承認するということは、そういうことだ。幻想郷は、その存立がどこか唯心に拠ったところのあるがゆえに、外界――常識の壁――博麗大結界に隔てられた『我々』の現実を超克することを許された、権利人たちの独壇場なのである。
 
 けれど、しかし、さて。
 
 ここに『我々』と限りなく近い地平に位置し、ともすれば『我々』の立場を代弁させることのできる者たちもまた、東方projectには存在する。ごぞんじ、宇佐見蓮子マエリベリー・ハーンの二人、秘封倶楽部である。
 
 彼女たちは『我々』とほぼ同一の地平に住まう者でありながら、その能力と志向ゆえに半ば“越境者”としての立場を背負わされたキャラクターでもある。それは探究心の果てに行われる幻想郷への旅であったり、あるいはサッカリン・キッスであったりする。また話が逸れた。少なくとも彼女たちは、ある『機能』の体現者に他ならない。憧憬。未だ見ぬものへの憧憬、他者と一線を画するものを知り行使する、その快楽への憧憬――そのどこか子供じみた憧憬という『機能』こそが、秘封倶楽部の二人をちゅっちゅさせたり“越境者”の立場に任じたりしている。憧憬は、また想像力をかき立てずにはおかない。想像力の担保が幻想郷の存立基盤であると考えるとき、その無邪気さの全てが許されかねない幻想郷への越境者たることを望む秘封倶楽部は、『我々』の地平に立ちながらも、同時に幻想郷の在ることをも証明する外部装置と化してしまう。彼女たちは、結界の外に外部化された幻想郷の一部だ。想像力は、未だ見ぬものへの憧憬によって養われている。
 
 だが――――。
 
『我々』の憧憬の、半ば体現者でさえある秘封倶楽部のその願望、その想像力が、幻想郷に行き着くことなく真に『我々』の世界でのみ担保され始めたとき、それはいったいどのような結果をもたらすのだろうか? あるいはそれは、幻想が現実を侵略し始める、極めてグロテスクな現象として結実するより他にないのではないだろうか? 
 
 否、元来。
 
 幻想を許容する余地があるということは、そのようなグロテスクさを受容する快楽をあえて受け容れるということだったのではないだろうか? 我々は、訳知り顔の博物学者が実在の生物として記録したスキヤポデスの存在を、今では完全に否定することができるだろう。アレクサンドロス大王がインドで遭遇したという、仔犬ほどの大きさを持ち金塊を巣穴に隠すという蟻を一笑に付すことができるだろう。しかし、その“幻想”が事実となったとき。古臭い博物学に基づいた生物図鑑は、単なる読みものではなく危険な生物について克明に記述された、極めて重要な書物へと様変わりをしてしまうのだ。
 
 アゼルバイジャンはバクーの街が巨大なネコに踏み潰され、万の人々が死んだとき、しかしそれは未だ、半ば不可思議な何かであるに過ぎなかった。この作品の中で、世界の首脳たちはバクーを襲った巨大なネコを極めて大きな脅威として認識し、核兵器で跡形もなく焼き払ってしまう。それは、このネコなる何かが言うまでもなく非常に危険だったからだ。現実的な脅威に対して現実的に対処した結果、ネコは死んだ。
 
 けれど突き詰めて考えていくと、――このネコなる何かは作中における紛れもない現実的脅威であると同時に、どこかしら非現実の表象であるということに気づかされる。こういう書き方だと、ともすればこの作品がフィクションだから、何が起きても不思議ではないという卑小な視点に落ち込みそうになるのだが、違う。
 
 このネコなる何か、バクーを壊滅に導いたネコなる何かは、蓮子とメリーにとってもやはり非現実そのものだ。二人はラーメン屋の店先で、テレビから流れる報道を目にしながらラーメンと餃子を食べ、何となく件のネコなる何かを話題に上せる。そこにいっさいの悲壮感はない。あくまで日常会話、何でもない日々の風景である。
 
 残酷なまでに、二人はあまりにも平和に過ぎるのだ。
 映像の向こうで起こっている事件は恐るべき現実。疑いようもないし、覆すべくもない。だが、それを身に染む脅威として認識することは、『我々』には到底不可能な芸当である。多くの場合、“越境者”たることを期待される蓮子とメリーでさえ、それはできなかった。二人の中では、映像の向こうのすべては非日常である。非日常を日常に落としこんで辛うじての理解を図るためには、まずはその出来事を一種の悲劇として物語らなければならない。だが、出来事が悲劇と化した瞬間、それは本来の形を見失う。蓮子とメリーは自分たちが解釈し生産した悲劇の中で、あくまで日常の一端として非現実の表象たるネコなる何かを消化していく。
 
……否、むしろ、非現実たるものを消化するには、日常というあまりにも強力な装置の作動を待つより他にないのかもしれないのではないか。そこに及んであらゆる事物は等しく物語ることをされ、物語として限りなく平準化されていく。非現実の表象たるネコなる何かは、非現実の表象たるままで。かつて起こった不思議なこととしてのみに。
 
 タンザニアの牧師、ビクトリア湖ナイルパーチターミネーターファイト・クラブショーシャンクの空に……蓮子はあらゆるエピソード、あらゆる映画を切りとって引用し続ける。一方で夜の街中でメリーと共に高歌放吟し、ローソンでおでんを買って公園のベンチでかっ食らう。それは、世界のどこかにある“華やかな悲惨さ”を持つ現実と、蓮子たちの日常とを隔てる絶望的なまでの、強烈すぎる対比だ。そして、それらのエピソードや映画たちは、いずれもバクーの街を襲ったネコなる何かと同じものであるに過ぎない。憧憬が、蓮子の憧憬が彼女に物語ることを続けさせる。彼女は、彼女の想像力を凌駕した非現実が日本に、詰まるところは自身のもとに訪れなかった理由を何度もメリーに問い続ける。自分はアゼルバイジャンに行く、とまで言ってしまう。
 
 蓮子は、いったい何を欲しているのだろうと考えるとき、『我々』はこの作品の中で語られ続ける非現実は、一貫して憧憬という感情を仮託されたものであることに気づく。というよりも、蓮子自身が作中で烈しいまでに吐露しているから、明らかだ。そのときの彼女はもはや“越境者”としての立場すらも喪失し、憧憬という機能における最大の体現者としてのみ貶められる。確かに存在するはずの出来事であったとしても、身近に起こらない限りは非現実とさして変わることがない。物語られることで平準化された――平準化するより他なかった――悲劇は、蓮子というキャラクターの中で昇華され続け、強い強い願望へとその姿を変えていく。
 
 ネコなるものの悲劇の渦中に自身が在ることを求める蓮子は、では一種の破滅的な願望の持ち主なのだろうか。違うと思う。枷でしかなかった日常は、その実際では秘封倶楽部というよりも蓮子ひとりに対してだけ一方的にはめ込まれたものだった。物理法則に縛りつけられた世界からの脱出を望む彼女は、初めて受けた警官からの職務質問をさえ非日常への足掛かりと考えたがるが、そんなことはもちろんない。というよりも、そんな珍しくもない事象からさえ日常の放擲、非日常への没入という意味を見出そうとする蓮子の哀しみだけがより際立つのである。
 
 いかなる非現実への憧憬であっても、それを理解せぬ限りは極めて日常的な段階にまで貶められた感情でしかない。なまじ蓮子は秘封倶楽部の片割れとして超常の能力を持つがゆえに、自身の裁量と才能を凌駕し得るだけの領域、想像力の担保される領域に自身が踏み込めぬことに苛立ちを覚えることしかできないのだ。
 
 だからこそ、彼女の憧憬は無軌道なまでの願望としてのみ顕れる。あらゆる非現実を『悲劇』という日常の装置に還元し続け、それを自覚的に行使し続ける。本当の『悲劇』の現場に踊り込めば、それは今度こそ明確な現実として享受できるのに、と歯噛みしながら。そしてついにメリーは、蓮子の哀しみを共有する。叶うことのない憧憬と願望を消化するには、それを語り合い共通の認識とすることだけが重要なのだ。ふたりはそうやって、またいつもの日々、いつもの秘封倶楽部に回帰していく。そのはずだった。
 
 
 ――――しかし終盤、本作は常軌を逸した異常な変転を『我々』に突きつける。
 そしてそれこそが、否応のないこの物語の核心だ。
 
 
 京都に、蓮子とメリーの眼前に、アゼルバイジャンで殲滅されたあのネコなる何かが唐突に、あまりにも唐突に出現し、市街地で破壊活動を開始したのである。
 
 これまではまがりなりにも“非現実に憧れる現実の少女たちのお話”でしかなかったストーリーは一気に別の次元にまで引き上げられていく。蓮子とメリーの日常だったはずのものは幻想へと接続され、現実は非現実に収斂し、絶え間のない侵略が開始される。そしてメリーはついに知るのだ、あのネコなる何かは、日常に埋没するうちで知らず知らずのうちに『悲劇』として『物語』として『我々』が消化し続けてきたあらゆる出来事の表象でしかないことを。それがついに現実として現れてしまったことを。想像力の担保と補完が開始され、秘封倶楽部は、再び“越境者”へと再任される。それは、世界の破滅が近づきつつあることと同義かもしれない。
 
 だが、しかし。
 蓮子とメリーは、むしろこの破滅を喜んだ。
 もう、彼女たちは映像の向こう側でしかない、リアリティを欠いた『物語』を消化する境遇からは無制限に脱出できるのだ。これまで知ったあらゆるエピソード、観てきたあらゆる映画に対し、自身が体験したかのように涙し、欲望することができる。本当の『悲劇』の渦中に飛び込んだ者は、その権利人となる。秘封倶楽部は欲望し、彼女たちだけの世界を得る。
 
『物語』を体験してしまった者は、『物語』の脅威に立ち向かうことができるのである。
 
 そこに至っては、これまでは単なる逃避でしかなかった日常の営みが、あらゆる『悲劇』と『物語』、非現実だったものが現実として顕現したという事実に対抗するための、決断的な闘争となる。ネコなる何かの破壊活動によって京都市街が壊滅していくという圧倒的現実の中で、家に帰って一緒に映画を見ようと約束を交わす秘封倶楽部は、今このときにこそは、もっとも非現実と相対する人間の意志の強さを見せる。
 
 畢竟、この『映画と秘封と秘封と猫と猫と秘封と秘封と映画と』いう作品は、強烈な哀しみと相対したときに人間はいかなる手段で闘い得るのか、という作品だったのかもしれない。そういう観点から突き詰めて考えてみると、あのネコなる何かが表象する非現実とは、世界に満ち満てる『無視された悲劇』そのものの集積である。『無視された悲劇』は人間の生活を、日常の営みを圧迫する。だが、遠く離れた場所から見聞する者たちにとってすれば、『無視された悲劇』はしょせん“華やかな悲惨さ”であり、『物語』であり、憧憬と願望の対象に過ぎない。
 
 だから『我々』にとっての非現実たるものは、その実、悲劇であることと意味を同じくしない。他人事であり続ける限り、あらゆる悲劇は“華やかな悲惨さ”であり、憧憬の対象なのである。そして、遠い国の悲劇だったはずのものが非現実の枠を超えて眼前に立ち現われた時。『我々』は、しょせんは己の知っている世界の形、物語、語りの言葉に当てはめて理解するより他にない。
 
 それこそが、秘封倶楽部が一緒に映画を観ようという日常への回帰を決断したことの、同時に、その行為が悲劇なる圧倒的現実への、最大最後の対抗と闘争の手段と成り得る理由ではないだろうか。いつもと同じく、しかし、強い意志を持って日々の営みを行うことだけが。圧倒的破壊に対しては、圧倒的維持の志向で相対するより他にない。蓮子とメリーは、フィクションを以て現実に立ち向かうのではなく、現実をもってフィクションめいた悲惨な現実に立ち向かう。あらゆる悲惨と悲劇を身体的感覚として知覚することによって。
 
 それだけがこの世界を、否、『我々』の世界も余さず覆い尽くしているはずのネコなる何か――さして関心の払われない、しかし人々を抑圧する『無視された悲劇』を、今度こそ無視することなく直視し続けるということなのだから。