『藍色の華 不可能な境界Rewrite Ⅱ 前篇』

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▼作者:春日傘氏
▼サークル:雅趣雅俗
▼発表形態:同人誌 コミックマーケット86にて発行
▼ジャンル:ベルサイユのばら

 

 

 どれくらい昔かはわからないが、『ベルサイユのばら』が少女の基本教養であった時代がたしかにあった。池田理代子作のこの少女漫画の筋を紹介するとフランス革命期に生まれ男装の麗人として育てられたオスカル・フランソワ・ド・ジャルジェが母国の近衛連隊長になり王妃マリー・アントワネットの護衛を務めるがその後なんやかんやあって革命で死ぬ。以上カンタンですまないが原作漫画を読んでいない身としてはこれくらいの紹介が限界である。

 ただ読んでいなくてもこのくらいの紹介が可能であるということが重要なのであって、おそらく多少なりともオタクである人間であればオスカルとアンドレの名前は知っているしそうでなくても『ベルサイユのばら』という作品タイトルは知っている。浅学ながら推察することとしてはオスカルはいわゆるわれわれがイメージする「男装の麗人」の元祖に近い位置にいるのではないだろうか。これはなにもオスカルがいわゆる男装の麗人の創始者ということではなくオタクカルチャー的な範囲に絞っても『リボンの騎士』のサファイヤがいたしそれ以前にも歴史上にはたくさんの男装の女性がいた。ちょっとぐぐっただけでも川島芳子という清王朝の王族の血を引く女性が日本人の性を名乗り第二次大戦中に関東軍の女諜報員として活躍したそうである。ほんとうにちょっとぐぐっただけなので詳しくはわからないが。

 でもここで言いたいことはそういう雑学などではなくって、『ベルサイユのばら』が国民的な漫画であったということを強調しておきたい。そんな『ベルばら』とわれわれの愛する東方ProjectをMIXして小説を書こうという「おまえは何を言っているんだ」的なことを考えたのがわれらが春日傘氏でありその作品が今回紹介する『藍色の華』である。


 小説の発端となる時代はフランス革命の少し前、一七六二年。フランス革命が始まるのが一七八七年の王権に対する貴族の反抗からとされているから(wiki情報)これはその二五年前にあたる。マリー・アントワネットの首が落ちるまでここから三十年。この三十年という数字が後々重要になる。

 小説の主人公は藍様である。純然たる東洋妖怪である彼女が何故フランスに現れたかというと、彼女の主人たる八雲紫の命であって、境界の大妖たる八雲紫はその式に「フランスの社交界に出入りする事。社交界の中心的な人物になる事。けれどもそこで可能な限り憎まれる事。それらの状況を数年以内に完成させる事、なお手段は問わない」という目的のわからない命令を出してあとはほったらかしにする。式である藍様は主人の思惑を勘案することなど許されていないので、わけがわからないなりにもともかく言うとおりにするべくフランスに乗り込み売春婦になる。

 初手から売春婦である。これがこの作品における藍様クオリティー。藍様は貧民街の売れっ子売春婦からその経歴を始めその後(小説内で)なんやかんやあってポンパドール夫人に見出されついにはフランスの生きた貢物として各国の外交官と寝る公務娼婦とでもいうような立場にまでなる。セックス、セックス、セックスである。これが八雲藍の「性」であり彼女はそういう妖怪である、ということがこの作品では強く打ち出されている。しかしわれわれはそんな藍様にひとかけらも嫌悪を抱かない。

 これがどういうことなのか考えてみよう。

 自分が特にモラル意識の高い人間であるとは思わないし、その逆に低すぎると考えたこともない。ごく普通の価値観を持ったKENZENな人間だと考えていて、であればこうした寝ても覚めてもセックスであり(主から命令されたことであれ)何かの目的を達成しようとする際にその手段としてまずセックスを考えごく自然に売春婦となる、というような女性をあまり好む理由はないように思われる。「この売女! メス豚! セックス中毒!」と罵声を浴びせないまでも眉をひそめるくらいはしていいだろうし、ぼそっと「感心しないな」とつぶやくくらいはあっておかしくない。

 しかしそう思わないのには理由がある。大きな理由のひとつはわれわれが藍様をそれこそ「そういう妖怪」であると認識していること。とくに明言されたわけではない(と思う)が藍様がいわゆる「九尾の狐」であることは東方界隈で広く浸透した共通認識であり、紀元前からセックスで国を傾けてきた藍様がそういう方法でフランス社交界に入り込もうとするのも当然のことだとすんなり受け入れられるのである。もうひとつはわれわれが各種のエロ小説・エロ漫画・エロゲーに触れすぎてそういう方向に感覚が引っ張られていること。はっきり言って「んごっほおおお♥♥♥♥♥♥子宮口開いちゃいましゅううううう♥♥♥♥♥♥♥」なんて喘ぐ女はいないのである。いないんじゃないかな。いないのである。

 しかしこれだけでは一般論であってこの小説に固有の特徴を言い表しているものではない。この小説の藍様を、われわれがこんなにも「好きになる」のは何故だろうか?

 後述するがそれはこの小説が歴史小説であること、この小説を俯瞰する作者の(そして読者の)視点の位置、または歴史や社会というものに対する認識のあり方と関係しているように評者には思われる。


 貧民街の娼婦「ルナール」として売れっ子になった藍様のもとに一人の男が訪れる。

 男の名はヴラド・ツェペシュ。名からたやすく察せられるように吸血鬼である。彼自身は血の薄い、吸血鬼という種族の中では脆弱で下等な存在に過ぎなかったが、(おそらくそれがゆえに)自身の吸血性を隠し人間として人間社会に交じり経営人として成功している。金持ちである。彼は鞄いっぱいの金の延べ棒と十万リーブルという大金でルナールを身請けする。

 彼には悲願があった。滅び行く種族である吸血鬼を救おうというのだ。

 そのために彼は世界各国をまわり残された数少ない吸血鬼たちと会ってきた。が、自分たちを救う方法はなかなか見つからなかった。吸血鬼という種族はある個体としては成る程強力であるものの如何せん個体数自体が少なくまたそれを増やす方法も容易ではない。幻想が薄れ夜の暗さも薄れつつある時代において彼ら化け物は日に日に数を減らしやがては駆逐される運命にしかなかった。見込みの少ない旅を繰り返し幾度も失意に晒されけれども彼は決して諦めることなくその方法を探し続けた。そしてイングランドの地でスカーレットに出会った。

 スカーレットの長女は運命を視ることのできる能力者だった。彼女はこう予言した。「運命を動かすにはパリで一番の娼婦を買え、金は惜しむな」。

 ツェペシュがルナールの前に現れたのにはこういう経緯があった。予言に従い、彼は狐を買う(そして当然セックス)。


 藍様のセックスのことばかり書いているが、この小説の読みどころのひとつとしてレミリアの運命視の能力についての話がある。ちょっと長くなるが引用してみよう。

 

「時間の流れや未来に対して勘違いしている者が多い。この世は円だ。始点から周り始めて終点に帰る。大きな大きな円の中に私たちは居る。必ず終点に帰るんだ。それが時間の流れや未来だと思っているモノの正体だ。私は終点を知っている。つまり始点を知っているから終点から逆算を行うことにより現在の立ち位置とその少し先を詳細に知る事が出来る。なあ、物というのはこうやって近づいて見ることと目を離して見ることでは見え方が変わるだろう。例えばつまり細かく見ると蛇行していたりネジ曲がっている線も大きな視点で見ればともあれある方向へ向かって伸びている事が分かるはずだ。この場合狐が死期を知った事で線が少し歪な方向へ伸び始めたのだ。しかし大きな視点で見れば線は相変わらず終点に向かって円形を描きながら進んでいるしそれは全く変わらない。けれど私は私の立ち位置からみた終点からしか逆算できないから既に歪に進んだ線を捉えることは叶わない。今はそういう状態だ。繰り返すが始点と終点は同じ場所にある。それは変わらない。未来が変わったという訳ではなくそこへ向かう道筋というか線の角度に多少の変更が加わったに過ぎない。だから便宜上未来が変わったというのは間違いではないものの厳密に言えば全く正しくない。それは決して忘れてはいけない事さ」
「では線が終点から始点へ帰ると世界はどうなるのかしら」魔法使いが興味津々という風でレミリアに尋ねる。こういう話を二人は今までしてこなかったのだろうか。
「円は、比較的短い時間で始点から終点へと結ばれる。つまり時代と人間は呼ぶ時間空間が存在するはずだ。それも円だ、何々時代ってね。あの時は誰々の時代だったとかそういうのさ。渦中にいる時はそれを意識出来ないものだが振り返ればそれは確実にあるものだろう。句切れとかね。歴史とかいう例のあれさ。集積や経験によって人間はそれらを認知することが出来る。そこから学ぶこともあるだろう。最近では短い円が沢山出来ている。つまり沢山の始点が存在するんだ。いや、昔から沢山の始点があったのだろう。最近の私にはそれが見えるようになってきたという事だな。きっと見えたという事は選択もできるようになるのだと思う。あるいはそれこそが、そしてその始点から始まる円の中身を完全に把握した上で各々に選択出来る事こそが運命を操る能力の正体かもしれないってね。まだ分かんないけどさ」


 よくわからないようでよくわかるようでよくわからないようでよくわかる話である。ちょっと自分なりに言い換えてみよう。つまり運命とは始点と終点を持ちそれが同一の点に帰ってくることから円に例えられる。円には大きいのも小さいのもある。円を描く線の軌道を多少歪めることはできるが一度円に乗ってしまえばその終点を変えることはできない。それは円であるがゆえ、始点と終点は同一であるがゆえだ。円はいくつもありひとつの円が終わると次の円がはじまる。レミリアはその円を視ることができるのでその円の終点つまり未来、「時代」と呼ばれるものの終わりを見通すことができる。しかしその円が終わりを迎えたあとの「次の円」を選ぶことはまだできない。(自身の能力が完成をみればもしかするとできるようになるのかもしれない)

 円の説明はもう少し続くのだが、長いので引用はこのへんにするとして、いままでレミリアは「次の円」を選ぶつまり運命を選択することを試さなかったわけではない。何度も試みたがその度に上からの介入にあい邪魔をされ失敗した。

 上とは何か? その答えは実際に小説を読んでいただくとして、ここで強調したいのはつまり時代と呼ばれる時間の一つの区切り、妖怪も人間もひっくるめたその総体の活動はその軌道においては多少の自由が許されているものの終着点においてははじめから(「始点」が選ばれた段階で)決定されており途方もなく強力な吸血鬼であるにしろいくつもの国を傾けた伝説級の妖狐であるにしろそれを覆すことには未だ成功しない。ツェペシュを介して藍とレミリアが出会うことによりこの小説の物語は転機を迎える。つまりこれ以降は吸血鬼と狐の結託チームが「上」からの介入に抗い「次の円を選択する」つまり運命を選ぶことを目指して努力する話になる。


 先に述べた「この小説が歴史小説であること、この小説にある視点の位置、歴史や社会というものに対する認識のあり方」という点とからめてレミリアの能力を解説してみたい。つまりレミリアは狐や自分たちといった強大な力を持った存在でさえ「時代」と呼ばれる時の円環の中ではせいぜいが線を歪ませる程度でその終着点を変えることはできないのだと言っている。運命はその始まり、円の始点が決められた際にその結末も同時に決定されており、その中での自分たちは単なる個々のプレイヤーの一人に過ぎず時代という大きな流れそのものから抜け出すことはできない。

 これはわれわれが「歴史」や「社会」を見るやり方と通底しているように思われる。社会学の用語で「方法論的全体主義」という言葉がある。これは「方法論的個人主義」と対になる言葉で、全体主義、とただ言っただけではいわゆるあの、個人より全体の幸福を優先するのがいいんだ、全体の幸福にくらべれば個人の幸せなんか鼻くそなんだ、だからわれわれはちっぽけな幸福を捨てて全体の効用に身を捧げなければならないのだ、ああだこうだ、というあの思想のイメージが貼り付いているので否定的に捉えられることが多いと思うが、ここで使われる意味としてはそういうのではなくて、なにかを見る(モデル化して考える)ときにそれをどういう視点から見るか、どういう立ち位置から考察をはじめるとより有用な、使いでのある答え(理論)にたどり着けるか、という切り口の問題である。たとえば経済学はその学問の対象を「知的で利己的な個人同士の相互作用からなる現象の研究」としているので全体主義的でなく個人主義的である。たくさんの個人が集まってそれぞれが知的に、そして利己的に振る舞った際にどんなことが起こるのか(そしてそこにはどんな法則が見いだされるのか)ということを頭をひねって(モデルを作り出していじくって)考えている。つまり経済学はこの世界を「個人の寄り集まり」として捉えている。対して社会学は「社会とは個人の寄り集まりというだけでは説明できない何かである。全体として見ればそこには個人の相互作用というものからはみ出る何かがある」という認識を基本的な立場とする。

 これをレミリアの能力に勘案してあてはめると「個人主義」が「線を歪めること」であり、「全体主義」が「円」となるだろうか。「歴史」や「社会」という大きなくくりで物事を見るとそこには個々のプレイヤーのアドリブだけには還元できない「何か」があるように思われる。何か、大きな時代の流れのようなもの。われわれはその大きな流れのうちで泳ぐ魚に過ぎない。そういう感覚はわれわれの誰もが持っているのではないだろうか? そしてそういう大きな流れを見る高い位置からの(未来からの)視点を持って書かれた小説のひとつが「歴史小説」というジャンルである。

 ただそのそれぞれを見るだけなら歴史書なり英雄伝を読めばいいのであって、それをわざわざ小説の形で書くことの有利さといえば「歴史という大きな視点を持った立ち位置からその中でいきいきと生きる個人の姿を物語のかたちで読めること」であってそれが歴史小説を読む快楽のひとつではないか、というのがこの稿で言いたかったことのひとつだった。

 そして『藍色の華』はそういう歴史小説の持つ快楽のかたちをレミリアの能力という装置を通してものすごく明示的に語っている(語ろうとしている)作品なのではないか、ということ。大きな「運命」、「円」を視ることのできるレミリアは成る程特別な個体であるにしろやはりその中で生きる一人のプレイヤーに過ぎない。だが彼女たちはその運命に挑戦することができる。


 けれど、もし、その挑戦が成功し、運命を選ぶことができたとして、それでどうなるのだろうか?


 主人公たる八雲藍は主命を果たすことの他に腹案としてフランスという大国を傾けることにより現在失っている妖力を回復し八雲紫の式という楔から解き放たれようと考えている。ツェペシュは滅びゆく種族である吸血鬼を救いたいと考えている。レミリアは、これは具体的にはとくにないんだが強いていえば「運命を変えること」そのものが目的であり自分の能力の追求であり完成であると考えている。しかしそのどれもが「ほんとうにやらなければならないこと」なのかどうかということについて言及する一節がある。

 レミリアとの最初の邂逅の際、藍は「お前は三十年後に死ぬ」と予言される。三十年後というのはフランス革命の時で、マリー・アントワネットの首が落ちる時である。はじめに「この数字が重要な意味を持つ」と書いたのはこのこと。けれどレミリアが予言し、それを藍自身が知ったことにより「線」は歪み、その運命は不測の海に投げ入れられた。

 レミリアとの邂逅を振り返り藍はこう語る。

「やはりこの邸宅に来るべきではなかったな」
「どうして」
 尋ねると八雲藍は消え入りそうな表情で、綺麗さっぱり死ねたかもしれないからと呟いた。


 引用を続ける。

 ツェペシュは堪らず八雲藍を抱き寄せると、全く抵抗をしない彼女はそのまま身を預けてきてなすがままにだったから強く口吻をした。お嬢様は関わるとロクな事にならない。身を滅ぼすと言っていた。けれども考えてみると吸血鬼の未来を守ることに関しても特に意味はないのだ。言うならば生きる目的が無理やり欲しかっただけで突き詰めて考えると空虚であることに変わりはない。ツェペシュやルナールやレミリアやフランドールが生きていることに特段の意味はなく仮に我々が今すぐ絶命したところで人間たちは今日も生きているだろうし明日も水を飲み子を孕んでいくのだ。早い話が今、感傷の中に居るのであって、けれども十一月のパリの寒空の下は仮に化け物であっても感傷的にさせられるものだ。まして互いに異邦人であり仮初めの売買を交わしたものであるならば尚更だろう。


 吸血鬼の未来を救うことに意味はない、どころか自分たちが生きていることにも特別な意味はなくそれは究極的には空虚であるとツェペシュは断じてしまう。それはただの感傷であるにすぎないと。

 大きな円の中にいるとはそういうことだ。ツェペシュの言うとおり今この瞬間に彼らが絶命したところで歴史/社会/世界には何の影響もなく人々は明日も水を飲み子を孕むだろうし、予言の通り三十年後にはひとつの円の終わりが訪れ新しい円が始まる。それは何事もないようにこれまでどおり運営され移行されていくだろう。そういうことを彼はしごく冷えた頭で認識し真っ直ぐに見つめている。

 ただしそれで彼らの歩みが止まるわけではない。己の行動を、存在を空虚であると断じつつも彼らは果断に「運命に挑戦」していく。われわれが彼らを好きになる理由がここにある。


 藍様はツェペシュの(お金をたくさん使った)手引きによりポンパドール夫人に面会する。当時フランス王室には「鹿の館」と呼ばれるルイ十五世専用の娼館があり、自身王の寵姫の一人であったポンパドール夫人がそこを運営していた。その娼館にルナールこと藍様を送り込み王をたらしこみ国を傾けようという計画である。ポンパドール夫人の面接審査に備えて藍様はこれまでつけたことのなかった内蔵が潰れるような細さのコルセットを無理矢理身に付ける。息をするのも苦しく常に吐き気をもよおし立ち上がるだけで背骨が折れそうになるその姿のままポンパドール夫人は藍に「腰を折り礼をしてみろ」と命じる。藍様は気を失いそうになりながらしかしあくまでも外見には優雅さを保ったままそれをやり遂げる。

 読み返しているとあまりの大妖怪らしくなさにニヨニヨ笑ってしまうが、運命を変えるというのはかように大変な(しかしそれだけ取り上げてみるとどうでもいいような)苦労の果てるともない繰り返しなのである。そしてこうしてひとつひとつの困難を片付けていくときの藍様の心の大部分を占めているのは運命を変えようとか国を傾けようとかそういうだいそれた目的意識ではないように思う。もちろんそれもあるだろうが、それよりもむしろたとえばこの場合は「コルセットに耐えて優雅さを保つ」というようなひとつひとつの困難に対して自分自身を賭けて挑戦している、という感じがする。

 売春婦になることだってそうで、八雲紫の主命に従うという前提となる目的があるのはたしかだけれどもひとたび手段を選んでからは藍様はただ目の前の物事に熱中しどれだけ自分が売れっ子の売春婦になれるか、どれだけたくさんの客にどれだけたくさんの悦びを与えられるか(そして自分も気持ちよくなれるか)ということに心を砕いている。主命について、忘れない程度に頭の隅っこに置いてはいるもののそれが彼女の第一の重要事となっているようにはどうも思われないのである。言ってみれば彼女はその時々で出たとこ勝負、行き当たりばったりで行動しそして目の前にある問題に本気で取り組みそれを成し遂げることに熱中する。この小説の八雲藍はそういうキャラクターだ。

 藍様だけがそうではないので、たとえばツェペシュも自己を(そしてその他のこともぜんぶ)空虚と断じながらそれはそれとしてレミリアの予言に従い運命を選ぶことに専心し機会を逃さず果断に対処していく。そういう空虚さと目の前の課題に対する挑戦との明確な分離が彼らにはあって、その課題に取り組むときの真摯さがわれわれを感動させる。彼らにとっては運命を選ぶことも、コルセットに耐えることも、売春婦になることも、大金を払って娼婦を買うこともみな同じなのだ。彼らはただその時々の自分の判断に自分という存在を賭けて精一杯行動しているだけのこと。すごく陳腐な物言いだけれども、生きることに対して「誠実」であるというのはそういうことであって、そしてそういうキャラクターに――「運命」に対する「個人」に――われわれが惹かれずにいることは難しい。


 例によって最後にちょっとだけこれまでと違ったことを書くと、この稿はいくぶんか春日傘さんの文体を真似るつもりで書きました。こういう句読点のすくないぬるぬるぬるぬるどこまでも続く文体が好きで――作者本人にお会いして聞いたところ、やっぱりというかなんというか戦前戦後あたりの作家、文筆家を意識しているそうです。個人的には横光利一吉田健一が思い出されるね。

 ただこういうのは誰にでもできることではないので、というかわりと「上手」でないとうまくいかないので……句読点というのはようするに文章のリズムを整えて「読みやすく」するために使われるものである(詳しくは知らないがそういうことにしておく)。その句読点をあまり使わずに読ませる文章を書くというのはつまりその文章がとても明晰でなければならない。というわけで評者はそうした文体の面でも春日傘氏をリスペクトするものである、という賛辞をもってひさしぶりのこのレビューを終わりとしたい。