『セラギネラ 閑話~紅色緋想天~』

f:id:Otayuri:20140731204806j:plain

▼作者:マムドルチァ氏
▼サークル:マムドルチァ丘陵
▼発表形態:同人誌 2013年例大祭にて頒布
▼登場キャラクター:紅美鈴 フランドール・スカーレット レミリア・スカーレット その他多数
▼ジャンル:弾幕のある日常

 

 

 マムドルチァさんの『セラギネラ 閑話~紅色緋想天~』をレビュるにあたり、まずは自分が最初に読んだマムドルチァ作品である『ふないうれいのおとむらい』を読み返してみた。これは2012年の冬コミで頒布された村紗水蜜成仏合同誌『幽霊客船の輪廻を越えた旅』に寄稿された作品で、20ページほどの短いものである。

 

村紗水蜜成仏合同 特設サイト
【C83 村紗水蜜成仏合同】 ふないうれいのおとむらい サンプル」/「マムドルチァ」の小説 [pixiv]

 

 村紗水蜜成仏合同というからには当然(作者が偏愛する紅美鈴そして三ボス同盟が例によってそうとうはばをきかせているものの)村紗にスポットが当たる話になっていて、主人公である村紗は作中で人里の村人の死に何度も立ち会うことになる。タイトルどおり、これは「ふないうれい」である村紗が人間をとむらう話、というわけ。*1

 

 はじめに蕎麦屋の爺さんが死ぬ。この出だしのところの文章がすごくかっこよくって、評者は自分の作品でこのテイストをどうにかして真似しようと試みたほどなんだけど――ちょっと引用してみる。

 

 寺子屋の入っている長屋のある通りの真ん中らへんに、もういい年をした爺さんがやっているやすい蕎麦屋があり、ワーハクタクの教師や博麗の巫女などは夏になるとビタ銭を握ってこの店を訪れ、洟垂れの小僧っ子やら歯の抜け果てた年寄りやらサボりの死神やらに混じってざる蕎麦をくらい蕎麦湯を飲むのが常だった。
「あんたァそろそろ逝かれるのかい?」死神がそう訊ねると爺さんは毎回決まって
「まだ一工夫足りない」と答えるので、それを聞いて彼女はそれじゃもう一杯頂いてからにしようかねえ、と返すのだった。
 実際爺さんはながく蕎麦打ちをしてきたためか喘息気味で、時々呼吸するのも苦しいような素振りを見せることもあった。しばらく前に竹林に住む薬師が、蕎麦を打つのを止めて少し長く生きるか、少し短く生きて蕎麦を打つか選べるわよ、と言った時も
「まあ蕎麦でも食べていきな」と答えているので覚悟は出来ているようだったが。

 

 実にカッコ良い文章である。気取らず、読みやすく、それでいてオシャレで、情報量があり、しかも語りすぎず、リズム感が良く、すばらしい進行感があって――イメージでいうと、粋な着流しのお兄さんが日がないちにち寝っ転がってるだけのただの怠け者に見えながらその実すごい剣術の達人である、という山田風太郎描くところの柳生十兵衛のような感じ、というか。伝わるだろうか。さらにイメージでいうと、テニスの王子様でいうと仁王と不二先輩を合わせたような感じというか。伝わるだろうか。*2

 

 話を戻すと、村紗は最初に蕎麦屋の爺さんの葬儀に出席する。上の引用でわかるとおり、爺さんは腕の良い蕎麦屋で、お客をはじめ、隣人や家族にも愛されていた。それで惜しまれつつ死ぬと孫のひとりが「爺ちゃんもうご飯食べられないの?」と近くにいた村紗に訊く。村紗は「そんなことありませんよ」と答える。「あんなに美味しいお蕎麦を沢山のひとに食べさせてくれたのですから、きっとあの世では私達の見たこともないようなご馳走が待っていることでしょう」。

 

 次に死ぬのが焼き鳥屋のおかみで、これは蕎麦屋の爺さんとちがって平穏無事な葬式とはいかず騒動が持ち上がる。焼き鳥屋という商売柄おかみは鳥の妖怪に恨まれていたので、意趣返しにその死骸を焼いて食ってやろう、とミスティアをはじめとする鳥妖たちが彼女の死体を狙ってやってくるのだった。当然、人里の守護者ことけーね先生が黙ってそれを許すわけはないので、三ボス同盟として駆り出された美鈴、アリスとともに村紗は妖怪たちを阻止する役回りになる。
 聖に出会う以前、舟幽霊としてたくさんの命を奪ってきた村紗が、幻想郷では立場を入れ替えて、人間の死体を妖怪から守る側になるわけだ。

 

 こういう話があと二つあって、それでこの短編はおしまい。この次は人は死なないけれど、和菓子屋の奉公人の娘を邪仙&キョンシーのコンビから守る話。最後の話は、はじめの蕎麦屋の爺さんとちがって、生前誰からも愛されなかった金貸しの爺さんの死体を、焼き鳥屋のおかみのそれと同じく妖怪から守る話。この四つの逸話で語られるのは、つまるところ、「村紗がそのように人の死に関わるのははたして正しいのか?」という問いだ。
 未練たらしい、邪悪な地縛霊として、これまで多くの人間を殺してきた村紗が、今さら仏法者の悟り面をして人の死を看取る資格があるのか。彼女ははたして自分の罪を自覚しているのか。偉そうに他人に口をきき、教えを施す前に、まずは自分が成仏するべきではないのか。
 村紗は言う。そうではない。私がほんとうに死んで私の罪と夢が裁かれるのはいちばん最後になってからだ。

 

 水蜜の周りに青い光が集まりだした。この青い光を村紗という。
「私のこの光はともしびです」彼女はそう口を開いた。
「極楽浄土を欣求するたくさんのたくさんの魂の道行きの足元を照らす、ちいさなともしびです」燐の見ている前で光は次第に大きくなり、明滅を繰り返すようになり出した。
「それら全ての魂が極楽へと辿り着いたその時、初めて私の罪と夢が裁かれる番が巡ってくるのでしょう。私と私の見出した教えが本当に空っぽだったかどうか、その時に教えてもらえるのでしょう。だからそれまでは成仏できません、いえ私はそれまでは成仏できません。そうでなければ何が功徳でしょうか」 

 

 たくさんの命を奪ってきた自分は言うまでもなく邪悪な存在である。しかし邪悪でおぞましい自分が、邪悪でおぞましい力を、邪悪でもおぞましくもない目的のために使ってはならないということはない。

 

 冷たい手だからとて誰かの手を取ってはならないという事はないのだと彼女は学び知っていた。


 というふうに、『ふないうれいのおとむらい』は村紗が村人の死を通して現在の自分の立場と考えを明確にする話だった。そして村紗は今の自分を肯定し、自身の行動に許可をあたえる。
 マムドルチァさんの小説にはいつもそういう、希望というか――こういう大げさな言葉はマムさんは好まないだろう――「何かをすること」に対する肯定感みたいなものがある。成仏合同のちょうど一年後に出た、寅丸星ナズーリン 空白の千年合同『ふたりぼっち』に収録された短編『わたしとわたしの同行二人』は、寅丸星ナズーリンが自分たちの行いのすべてが報われず、無駄骨なのかもかもしれないと思いつつ毎日修行したり念仏を唱えたり将棋を打ったりする話だった。

 

 ひとのためによかれと思ってやった行いが必ずしも受け入れられるわけではありませんし、良い結果をもたらすとも限らないのです。それでもよかれと思い続けられること、行い続けられることこそが信仰心のいちばん大事な部分なのですが。


 ここだけ取り出すとなんかアブない感じがするけども、このモノローグは人と妖怪の双方を教え導こうとした(そしてその結果失敗した)聖白蓮と、そして封印されてしまった聖がいつかまた戻ってくることを信じつづけている星とナズーリンについて書かれた部分である。――直接的には、星の将棋の指導を素直に受け取らない小鬼(正邪ちゃんっぽい)のことを書いているシーンだけど。
 ナズーリンはこうも言う。

 

「同行二人さ」ナズーリンは微笑みました。慈悲深い笑みでした。仏さまの言葉をとなえるとき、私たちはみなひとりぼっちではない。目に見えないものを信じ、探しても探しても見つからないものを探し続けるとはすべてそういうことなのだ。

 

 

   * * * *

 

 

 で、今回メインでとりあげる予定の、『セラギネラ 閑話~紅色緋想天~』である。
 数あるマムドルチァさんの作品のうちでなぜ今回こちらを選んだかというと、単純な話で、この作品がこれまでのところマムさんの唯一の「オフセット本」だからだ。『セラギネラ』はシリーズもので、『閑話~紅色緋想天~』の前に二冊先行する作品が出ている。そのふたつともがコピー誌で、評者は実際に目にしたわけではないが、二冊とも100ページ超だったという。(なげーよ)
 一冊目の『セラギネラ 閑話~明治十七年の華人小娘~』は、美鈴が妖怪に生まれ変わり、紅魔館にやって来るまで、そして紅魔館が幻想郷入りして紅霧異変を起こすまでの話。二冊目の『セラギネラ 閑話~紅「無」異変~』は花映塚を下敷きにした話で、幻想郷から赤い色がなくなる、という異変の話。で、三冊目……正確に言うと、「三作品目」の『セラギネラ 閑話~紅色緋想天~』もはじめは先の二作品と同様コピー誌で頒布された。2011年の例大祭から2012年の冬コミまで、計五回のイベントにわたって出されたものを、作者初のオフセット本として2013年の例大祭で一冊にまとめたものが現在評者の手元にある本になる。
 「家庭用のプリンタで16部しか刷らなかった」という前二作とくらべ、おそらくこの『紅色緋想天』がマムさんの本としてはいちばん人目に触れていて、読んだ人間が多いのではないかと思われる。それはまあ、くらべれば、のレベルなんだけど。

 

 『紅色緋想天』のストーリーを簡単に紹介すると、紅魔館の門番である紅美鈴が、いろいろあった結果秋姉妹や不死人や天狗や現人神、それからなんと主人であるフランドールお嬢様までも引き連れて、ぞろぞろと大人数で幻想郷に起きた新たな異変を解決しにいく、という話。
 と書いたところで違和感が果てしないが、本当のことなのでしかたない。最近全然見ないけど、一時期は名前を呼んでもらえないネタで一世を風靡し、二次創作でのみならず公式でさえ仕事をしないサボり門番扱いをされているあの紅美鈴が、である。
 もちろん、人によってキャラクターの解釈はちがう。二次創作作家のひとりひとりがそれぞれちがったキャラ像を持っていると言って間違いではないので、異変があるや我先にと積極的に解決に向かうアグレッシブな美鈴がいたっていいし、たとえば愛の力でプリキュアに変身する美鈴や、左腕にサイコガンをつけた美鈴がいたっておかしくはないだろう。*3

 

 でも、マムドルチァさんの美鈴はとくにそういうタイプではない。快活で人好きで、咲夜さんに黙ってこっそり隠匿したヤマブドウでお酒を漬けたりするような面の皮の厚い面はあるものの、やっぱり基本的にはだいそれたことをしでかすタイプではないし、そうした意欲もないしで、積極的に物語の主役になろうとする妖怪ではない。それがなぜわざわざ自分から異変に首をつっこみ、さっき書いたようなそうそうたるメンバーを引き連れてそれを解決するのかというと……いろいろありすぎて一口には言えないんだけど(ねたばれになるし)、ただ当の美鈴からしてみると、はじめからそういう一大勢力を引き連れた大決戦、みたいなことをやりたいわけじゃなかった。よく言えば臨機応変に、悪く言えば成り行きまかせで動いていたら、なぜだかどんどんメンバーが増えていって、いつのまにか、たまたまそういうことになっていた、というだけのことだった。
 首尾よく異変を解決したあとでも、美鈴自身には、自分が大変なことを成し遂げた、というような、気負った気持ちはぜんぜんない。

 

 それがよくわかる部分として、ここではひとまずストーリーの全部をすっとばし、物語最後の美鈴自身の述懐を引用してみよう。
 異変を解決したあと、美鈴はふだんの生活にもどり、遊びに来たミスティア・ローレライとともに二胡の弾き語りをはじめる(二胡の弾き語りはマムドルチァさんとこの美鈴の持ちネタのひとつなのだ)。この日演奏した曲目は、『世界を滅ぼすのが好きな神様が鳥達の歌声に心打たれて改心する話』だった。

 

         ****

 

   『世界が終わることを神は好む』

 

  神は世界を滅ぼすことが好きだ 
  好きだ 好きだ 好きなのだ
  アーイ 神よ

 

  それを鳥たちが気付いた時
  うたい始める
  うたい始める
  そして
  神がそれを聞いた時
  鳥たちが哀れになって
  ふたたびもとのままにする
  ふたたびもとのままにする

 

  アーイ できないのだ
  滅ぼすことなどできないのだ
  鳥たちによって

 

 (チョンタルの詩/荻田政之助・高野太郎編訳)

 

          ****


 結局のところ、自分がやったことはこの詩の鳥と大差ないことだと彼女は思う。次も同じようにするし次の次も同じようにする。自分が居なくなれば誰か他の者が似たような手口を思いついて実行に移すだけのことで。

 

(pp.254-255) 

 

 『紅色緋想天』は登場人物の多い群像劇で、多くのキャラクターの思惑が入り乱れるためしぜん話の筋はある程度複雑になる。中盤・終盤まで異変の犯人はわからず、それを探すミステリ的な要素もある作品なので、なかなか書きにくいところもあるのだが、その上でねたばれにならない範囲でちょっとだけ筋を書くと、この異変には真の黒幕とその黒幕に乗せられた形の黒幕未満の犯人がいた。
 でも、美鈴はその真の黒幕に気づかないどころか、黒幕未満である相手の思惑にすら思い至ることなく、勘違いしたまま異変を解決してしまう。そしてその異変自体が、言ってみれば暇人どもの暇つぶしみたいなもので、解決してもしなくても構わないようなものだったし、そもそも本当に「異変」と言えるのかどうかすらあやしいようなものだった(「迷惑」ではあったけども)。

 

 この最後の述懐の部分では、そういう美鈴のしたことについての「大したことのなさ」が強調されている。それは直接に世界を救うようなご大層なものではないし、そんな立派な意図があったわけでもないし、美鈴でなくても、誰でも同じことをするような、誰でもかわりができるような、ありふれたなんでもないことだったのだ、ということ。
 けれどその小さな、ただ鳥が毎日さえずるだけのようなとてもミニマムなことが、何かとても大きなもの、とてもマクロなものに働きかけて結果としてこの世界が滅びるのを防いでいるのだ、ということも同時に書かれている。
 ――村紗の話や星とナズの話と同様、『セラギネラ』シリーズでも、作中の登場人物たちの行動、そのひとつひとつの選択そのものに対する基本的な肯定感が物語の根底に横たわっている。
 どうやらそのあたりが、マムドルチァさんの小説のひとつの特徴と考えてよさそうである。

 

 けれど、この肯定感は、ひとつの寂しさとワンセットであるように、評者には思われる。
 というのも、美鈴も、村紗も星もナズも、「この世の成功」とは無縁だからだ。

 

 村紗は言わずもがな、地縛霊として多くの人を殺めてきた過去があり、現在の生はその贖罪のためにあると言ってもいい。聖の教えにしたがって、功徳を施しているけども、その教えが「ほんとうは空っぽかもしれない」とも彼女は言っている。
 星とナズは(作中で)封印された聖を思いながら、あてのない、ただ待つだけの生を生きている。「本当に正しい勇敢なものは、あの日いなくなって戻ってきません。宝塔だって探しても探しても探しても見つかりません」そう言って彼女たちは抱きしめ合う。
 脳天気に見える美鈴も、実は悲しみを背負っている。シリーズのはじめから読むとわかるけど、美鈴は生まれたときは人間で、あるときに偶然から妖怪になってしまった少女なのだ。紆余曲折あって紅魔館の門番になって、いまはそれなりに楽しくやっているけど、自ら望んでそうなったわけではない。
 美鈴がほんとうに望んでいたのは――おかしな偶然が起きなければ、それは叶っていただろう――妖怪にならずに、人間のまま生き、その生をまっとうすることだったろう。それはたぶん、はたから見ていていまよりもうんとつまらない、とても地味な人生だっただろうけど。
 村紗も、星もナズも同じだ。彼女たちは一様に、自らがもっとも望んだ結果を得られているわけじゃない。むしろ、これまでのどこかで、とりかえしのつかない、文字通り致命的な挫折を経験した者たちなのだ。
 それでも、彼女たちがいま生きていること、自分の意志で行動できていることが望ましいと思えるのは――それが許されている世界があってよかったと思えるのは――世界が美しいと思えるのはなぜだろう?

 

「さあ来なさい!たとい外の世界の全てが居なくなることを望んだのだとしても、幻想郷があなたを受け入れる!にも拘わらずあなたが幻想郷を滅ぼそうというのなら、それができないほどの不思議も美しさもここには在るということを私が教えてあげます!!」

 

(p.210) 

  

 幻想郷はそもそも、外の世界で忘れられたもの、もう、いらない、と思われたものたちの行き詰まりの楽園だ。(旧作はよく知らないけど)紅魔郷にはじまるWinシリーズのストーリーをそれぞれ見ていくと、そのひとつひとつは驚くほど「暗い」。妖々夢幽々子様の理不尽な死と忘却をめぐる話だったし、永夜抄は戦争から逃げてきた逃亡兵の鈴仙を匿うために起こされた異変だった。地底は幻想郷のなかにあってさらに忌み嫌われたものたちが住むというどうしようもない場所だし、星蓮船ときたら……説明は不要だろう。*4

 

 現実の世界のどこにも居場所がなくなったものたちが最後に流れ着く場所、それが幻想郷だ。幻想郷という箱庭世界、そして東方Projectという世界観をもった作品群のそのものが、はじめからある種の寂しさ、暗さ、うまくいかなさをたたえている。
 マムドルチァさんの小説はそういう寂しさにたいしてとても自覚的だ。美鈴は自分がもう、故郷の土を踏むことはないと理解している。自分が一度空っぽになり、以前はその中に入っていたものを、二度と取り戻せないことを知っている。『閑話 ~明治十七年の華人小娘』で幻想郷にやって来た美鈴が涙を流すシーンは作中屈指の――評者がいままで読んできたすべての東方二次創作の中でも、最高に悲しく、そして美しい場面だと思う。
 けれど、そういう寂しさをしっかりと自覚した上で、その上で美鈴は「この世の不思議と美しさ」を宣言するのである。小さな、何の力も持っていない小鳥がさえずり歌うのと同じくらい気安く、当然のように。

 

 

   * * * *

 


 ちょっと楽屋ねたというか、こっちの(評者の)話なんだけど、このレビューを書きはじめる前は、もっとちがうことを書こうと思っていた。マムドルチァ作品に通底する肯定感について書くのはそうしようと思っていたけども、それをマムさんの作品に頻出する『紅い』というキーワードと関連させて書いてみようと思っていた。

 

「やはり今でも『赤だけでは寂しい』とお思いですか?」ずっと昔聞いた言葉を確認する。
「そうね。世界には色は沢山あると知った後ではなおさら。ただ、赤色だけが自由で孤独なわけでもなかったわ。きっとどの色もそれぞれの境界を守ろうとする限りはひとりぼっちなのね」

 

(p.178) 

 

 でも、どうもうまくいかなかったので――いつもそうだけど、書いているうちに当初の予定と話はずれていく――『紅い』については次の機会のための宿題にしたい。
 もしくは、他の誰かが読んで書いてくれないかなあ、と思うしだいである。マムドルチァさんの『セラギネラ』シリーズは、ほんとうに大変面白く、おおげさなことを言うようだけど、東方二次創作という文化ジャンルのひとつの最たる成果と言っていいのではないかと、そのくらい大好きであるので、ぜひみなさんにも読んでいただきたいけれど――それにはまず、作者のマムドルチァさんが自作をもっと読まれるようにサービスしてくれないと、ということですね。

 

 

 

*1:当然、ダブルミーニングです

*2:というふうに、評者はマムドルチァさんの文章が大好きで、高く評価しているんだけど、それとは真逆にこれを「読みづらい」「文章は下手」「読者をひきつける訴求力がない」とする意見もネット上で読むことができる。
東方二次創作作品を語るスレ 36/36
東方二次創作作品を語るスレ 44/44
 一応あわせて読んでおくといいかもしれない。

*3:いやどうだろう

*4:紅魔郷が浮いてる