『レギオンの肖像』

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▼作者:海沢海綿氏
▼サークル:ゐた・せくすありす
▼発表形態:同人誌(2013年冬コミ頒布)
▼判型:A5版ハードカバー上製本
▼登場キャラクター:霧雨魔理沙アリス・マーガトロイド、紅魔館の面々、その他

 

 漢字が多い。改行が少なくて紙面が字で埋まっていて真っ黒。読みにくい。文字として読めない字まで使ってある。
 思わせぶりなフレーズがやたらに多いが、思わせぶりなだけでけっきょく最後まで意味がわからない。グロい。いわゆるグロ描写が内容の大半で、残りもわけのわからん抽象的な話ばっかりで困ってしまう。使われている言葉が特徴的なので派手さがあるが、でも作品のどこを切り取っても似たような感触で、退屈。その日本語の美しさだって、ようするに装飾過多でくどいだけ。
 
 海沢海綿さんの小説について、悪口を並べ立てるとしたら、こんなふうになるだろう。で、これは一面的な評価でありながら、わりと正しい。
 今回槍玉にあげる『レギオンの肖像』は、そんな海綿さんの2013年の冬コミの作品。同人小説なのにハードカバーということで、装丁の面からも話題になった。けれどここについてもまた、悪口を言うとすると、作者の自己満足以外に、同人小説で装丁にこだわる理由があるだろうか? 多くの読者は、自分の好きなキャラクターが作中でいきいきと動いている姿を読みたいだけであって、その本の外見がどんなデザインだろうと、ほとんど気にしていないんじゃないだろうか?
 
 これもそのとおり。「装丁沼」を自称する少数の作者たち以外にとって、同人小説の装丁がどうだろうが、どれだけお金がかかっていようが、どうでもいいことである――少なくとも二義的なものではある。むしろ中身がしょうもないのに外側ばかり立派でかっこ悪い、というような言い方も可能だ。そうすると――どうも悪口ばかりを言っていて恐縮だが――つまり『レギオンの肖像』はただの自己満足の産物であり、作者と一部の厨二病入ったオタクども以外にとっては読む価値のない本である、と断じてしまって良いだろうか?
 
 そうではない。よくない。
 たしかにこの小説は、上で書いたようなめんどくさい代物だが、その上でなお価値を持つ。
 
 ひとつには、その内容の極端さがあるだろう。『レギオンの肖像』の中で、たとえば魔理沙はありとあらゆる陵辱をされながら十回くらい死ぬ。犯され、血を流し、内臓を破られ、膣に硝子瓶を捩じ込まれて砕かれ、子宮に蝿の卵を産み付けられて孵化した蛆に内臓を食い破られる。ぐ、ぐろい……。
 魔理沙だけではなく、他の登場人物も全員死ぬ。それも可能な限り凄惨な方法で。もちろん、東方キャラを殺したらそれだけで偉い、ということはないんだが、それにしても、ここまで徹底して丁寧に殺されると、ついついちょっと人に薦めたくなってしまうのが人情である。つまり話のネタになる、話題性があるということ。
 この「話のネタになる」というのがわりと重要だと評者は考えていて、というのも、それはすなわちジャンルに活力を呼びこむ力になるからだ。東方二次創作小説におもしろいものが多いのは好きな人間であればよく知っているが、やはりそもそも同人小説というジャンルそのものがマイナー。いろいろ理由はあれど、漫画作品とくらべると、売上の差はいかんともしがたい。
 そこでこういう話題性のある・極端な作品が発表されることで、多少は巷で東方同人小説のことを話される機会が増え、人びとの興味を引き、ひいては業界全体の生命力に貢献しているのではないか、と考えている。なので、好き嫌いは別として、海綿さんの作品の方向性自体に価値があると評者は思っている。
 
 もうひとつは、上で「装飾過多でくどい」と悪口を言った、海綿さんの文章のおもしろさについての価値だ。
 ――手のひら返しをして、海綿さんの文章が美しいとか、かっこいいとか言いたいわけじゃない。ただ作者がそうした自分の文章に耽溺していること、そしてそれを支持する読者が一定数いることについて、注意する必要がある、ということ。
 海綿さんの小説は、だいたいにおいてこれといったストーリーがない。よくわからないままはじまり、耽美で印象的な文章で次々と人体破壊の描写が並べ立てられ、積み重なり、よくわからないまま終わる。そういうものだ。『レギオンの肖像』では、なんか最後のほうでとってつけたようにすべてのお話の理由が大急ぎで語られ、ばたばたと風呂敷を畳みはじめるが、まあ納得できない。単に形をととのえただけの付け足しにすぎないだろう。
 読者のほうも、海綿さんの小説について、展開だとか、伏線だとか、構成だとか、物語の解決によるカタルシスだとか、そんなものを期待して読んでいるわけではない。ありていに言って、海綿さんの本の読者はただ海綿さんの文章が読みたくて読んでいる。そういう受容のされ方をしている。
 それについて、ちょっと海綿さんを離れて、もう少し一般的なところから、小説のふたつのタイプについての話をしてみよう。
 
 かつてアントニイ・バージェス(『時計じかけのオレンジ』の作者)は彼の「ジョイス論」のなかで、小説家をふたつのタイプに大別してみせた。
 ひとつは、ことばをある世界を描き出すための透明なツールとして使おうとする作家。もうひとつが、ことばをことばそのものに耽溺する形で使う小説家。
 このふたつは必ずしもきれいに分かれるものではない。でも前者の例は、たとえば『ハリー・ポッター』のJ・K ・ローリングでもいいだろうし、坂口安吾でもいいだろう。後者はもちろん、ジョイスがその代表選手だ。ウラジーミル・ナボコフもそうだし、バージェス自身もこちらに入るだろう。そして海綿さんも、間違いなくこの後者に入る作家だ。
 
 バージェスは「ジョイス論」のなかで、まずは『ユリシーズ』の冒頭部を引用し、それがいわゆる格調高い流麗な「名文」なんかではなく、むしろぎこちない、ガタガタした、悪文とさえ言える文章であることを示す。ネットで拾ってきた『ユリシーズ』の冒頭の英語を引用して見せると、こんな感じ。
 
 
 

Stately, plump Buck Mulligan came from the stairhead, bearing a bowl of lather on which a mirror and a razor lay crossed. A yellow dressinggown, ungirdled, was sustained gently behind him on the mild morning air.

 

 
 
 
 最初の単語でいきなりコンマが入って、次に plump Buck Mulligan と同じ母音の跳ねるような音の単語が三つ続く。これは英語圏の人間にとっては、「しょっぱなでいきなりつまづいて、そのまま三歩つんのめりながらおっとっと、と飛び跳ねている」感じ、だそうだ。
 そしてこの後すぐに会話がはじまるけど、そのまわりの状況はほとんどわからないまま、省略だらけの得体の知れない会話がしばらくつづき、風景の全体像がわかるのはしばらく先になる。
 バージェスはこの冒頭部を、自らの手で見事にリライトしてみせる。タイプ1の、いわゆる「普通の」小説に。
 
 ダブリンが夜明けを迎え、街が朝日に照り映えて、主婦たちが井戸端会議に花を咲かせ――そしてカメラはこの冒頭部の舞台となる塔にズームインして、バック・マリガンとスティーブン・ディーダラスを軽く紹介しつつ、情報量の豊かな会話が交わされる。読者の頭には舞台がくっきりと描かれ、主人公たちの一挙一動が目に浮かぶように描き出される、色鮮やかな記述。
 そんなふうに、『ユリシーズ』の冒頭部を見事に書き換えた上で、バージェスはこう述べる。
 「こんなふうに書かれていたら、『ユリシーズ』には何の価値もなかっただろう」。
 
 バージェスによると、『ユリシーズ』の価値は、その美しい描写とか、華麗な文章にあるのではない。登場人物であるディーダラスたちの抱える苦悩が現代的なものだとか、それが社会的な問題を鋭く描き出しているからとか、そういうわけでももちろんない。ストーリー展開が壮大だとかそんなわけでもない。
 バージェスは述べる。『ユリシーズ』、そしてその他のジョイスの小説の価値は、それがまさにこうしたタイプ1の小説のように書かれていないところにあるのだ、と。それが文学史に残る作品となっているのは、まさにそれが、あまり絵画的な要素を持たない、一般的には悪文としか言えないもので書かれているからなのだ、と。*1
 
 なぜか。それはタイプ1の、ことばを世界を描き出す透明なツールとして使うタイプの小説は、究極のところ、映画やテレビに勝てないからだ。街や人の描写がいかに真に迫っていようと、それをそのまま、どーんと画面で見せられるのには決して及ばない。この方向には、小説の未来はない。バージェスはそう言う。タイプ1の作品でいかにすばらしい成果をあげても、同じような成果をもっとうまく(そして読者/視聴者にとって簡単に、低コストで)あげてしまう映像作品がかならずある。
 映像でなくてもいい。今後ますます進化していくだろう、バーチャル・リアリティなんかでも、くらべる対象はなんでもいい。とにかく、「ある世界を描き出す」という目標を設定した場合、文章は確実に、他とくらべて劣ったツールでしかないのだ(そして若者の活字離れが進む)。
 
 対して、タイプ2の作家がいる。変なことばをたくさん使う作家。何が起きているかもよくわからない、読んでもいたるところでひっかかってしまいなかなか先に読み進められない、違和感だらけの小説。駄洒落、語呂合わせ、韻、文字の遊び、決まった形式への固執、作者の偏執(フェチ)――そんなのばかり。表面的に読めるストーリーなんかより、そっちのほうがよほど大事だったりする、変な小説や詩。でもそこにこそ、小説の、小説固有の価値があるのだ、とバージェスは主張する。
 こうした作家たちは、小説や文章にしかできないことをやっている。『ユリシーズ』冒頭のつんのめり感を、映画やテレビで表現できるだろうか? 無理だ。
 
 これはなにも、タイプ2の小説のほうがえらい、という話ではない。駄洒落が好きな人もいれば、嫌いな人もいるだろう。どこかにはいるんだろう。万が一いる可能性がないとはいえない。
 でも、それは単に趣味のちがいでしかない。かっこつけた文士気取りの奴が、『ユリシーズ』(あるいは、海綿さんに引き寄せて言えばジャン・コクトーでもいい)の価値がわからない奴は馬鹿だ、とか言い出すこともあるだろう。でも、そうじゃない。単に反応している部分がちがう、というだけだ。
 でも、もし、タイプ1の作品にだけ反応する読者がいるとしたら――その人はいつか、小説なんか読まなくなるだろう。それは彼にとって不合理だからだ。映画やテレビや、ニコニコ動画MMDを見ていたほうが、ずっとお手軽に、彼の望む効用を得ることができるからだ。
 
 では、ここで、バージェスに習って、『レギオンの肖像』をちょっとリライトしてみよう。
 『レギオンの肖像』は、いくつかのパートで書かれている時期がちがうこともあって、わりと部分によってトーンの差がある本なのだが、ここではわかりやすいところで「緋劇」冒頭の魔理沙が紅魔館の地下に向かう場面を選んだ。
 
 
 
 
 茨の鎖で彩られた地下へと続く階段は、まるで魔女の窯を覗きこんだ様だった。魔法で灯した淡い光を手に宿し、ゆっくりと段を踏みしめた。茨の凹凸が、元より急だった階段を目の前に敷き詰められた夜の黒にも似た影へと引き摺り込む為の罠にも思えてくると、魔法使いは金の花に誘われながらも慎重に下りながら、喉の奥で呟く。元より締め切った屋敷なのだから、風の一つもあるわけが無い。其れは理解している。だが、余りに犇めいた空気が澱んでいた。うねる階段の表面に、足を取られぬ様に壁に手を付けようとしても、茨は壁へも続いてしまって、あたわない。
 ゆっくりと降りた、先。見慣れた扉へ皓と光る魔法の明りを当てる。何度も見た、僅かに赤錆の浮いた枠、材質の知れない深緋の扉。其処に、一つだけ違和感を覚えた。扉を開け放つ為の、ノブ。其処には今までは存在していなかった物が吊れ下がっていた。淡く明滅を繰り返す灯りが照らしだした物。最初に目に映えたのは、銀と金。霞一つ無い金色の鎖が何重にもノブに巻き付き、扉の肌を這いながら、壁の黒い茨の中に埋まっていた。そして、ノブの先に掛けられた、銀の錠前。空いた手で錠前を手の中に収めると、凛と冷えた金属特有の拒絶する肌が指先に噛み付いた。少し力を込めて、錠前を引っ張れど、堅く閉ざされた銀の環は数ミリさえも動いてはくれない。
「畜生、何だこれ?」
 苛立ちが、口を吐く。
 
(p.12)

 

 
 
 
 
 念のため書いておくと、評者はこれが悪文だ、と言いたいわけではない。むしろこれを流麗で華麗な文章だ、と言う読者もいるだろう。でも、いわゆるわれわれが一般的に使う意味での「ふつうの、読みやすい」文章ではないのは間違いない。何より漢字が多い。「其れ」とか「其処」とかふつうは漢字にしない。「犇めく」なんてだいたいの人が読めない。そこんところをひらいてひらがなにするだけでもずいぶん印象が違うはずだ。ではこれを、タイプ1の「ふつうの」「透明な」文章に翻訳してみると、どうなるだろうか。
 
 
 
 
 地下へ向かう階段の表面には茨がびっしりと生えていて、まるで、魔女の窯を覗きこんでいるようだった。魔法の淡い光を手に灯して、魔理沙はゆっくりと階段を降りていった。
 行く手はとても暗く、その奥は夜の黒にも似た影のように見えた。もともと急な階段だが、茨がその凹凸をさらに際立たせていて、とても歩きにくかった。それはまるで自分を奥へと引き摺り込む罠のように思えた。屋敷の入口からずっとつづいている、金の百合を道しるべにたどって進みながら、魔理沙は喉の奥でうめき声をあげた。
 もともと締め切った屋敷だから、風が吹き込むことはない。けれど、それを加味した上でも、あまりにも空気が澱んでいるように思えた。茨に足を取られないように、壁に手をついて進もうとしたが、茨は壁にもつづいており触れることができない。
 長い時間をかけて、やっと、階段の終わりまで行き当たった。そこには材質のわからない深い緋色の扉がある。扉の枠には赤錆が浮いている。
 いつも見ている、見慣れた扉だった。けれどひとつだけ、そこに違和感があった。ドアノブに何かが吊れ下がっている。手の中で淡く明滅を繰り返す魔法の光でその部分を照らしだすと、金色の鎖がノブに何重にも巻き付いて、その端は扉の表面を這いながら壁の黒い茨の中に埋まっているのが見えた。
 ノブの先に、金色の鎖と対になるようにして、銀色の錠前が掛けられていた。魔理沙は空いているほうの手で、その錠前に触れた。錠前はとても冷たく、金属特有の肌を拒絶するような温度が指先に噛み付いた。少し力を込めて、錠前を引っ張ったが、堅く閉ざされたそれは数ミリほども動かなかった。
「畜生、何だこれ?」
 苛立ちが口を吐く。

 

 
 
 
 
 読みやすさ、伝わりやすさを重視すると、こんなふうになるんじゃないだろうか。どちらを好むかは読む人の趣味の問題だが――少なくとも海綿さんの読者は下のような文章が読みたいわけじゃない。上の、オリジナルの文章に反応する人間が海綿さんの本のファンになる。
 
 
 
 
 人形。恐らくは、人形なのだろう。
 唯、其の人形には首が無かった。代わりにあるのは鳥籠だけ。近づいてみると、人形の目の前には一脚の椅子が置いてあった。向かい合う様に。アリスは、椅子に座り、足を組みながら、腕を組む。頬杖を突きながら、じっと見つめた。
 其の人形の下半身を見ることは出来ない。何故ならば、腰から下はクリノリンの枠組みだけが嵌められていた。荒い格子の中。其処には無数の生首が犇めくように詰まっている。隙間無く、間断無く。其れでも空いた隙間には黒い茨がみしりと生え揃う。違和感。首の一つ一つにある違和感。其れは、彼等には瞳が無かった。本来は眼球が存在しなければならない場所、其処にはばらばらになった白い苧環の花が詰め込まれている。首の一つ一つ、其の全てに。
 人形の腹はまるで妊娠してでも居るかの様に膨れていた。けれど。クリノリンの嵌め環から臍に掛けて、縦に裂け、肥大した女性器の様な形の瑕が走っていた。人形の中身、其処には無数の眼球が詰め込まれていた。全ての虹彩の色は異なり、僅かな色彩の差異を考慮すると、何一つとして同じ色がなかった。ころと時折、眼球は地面に落ち、けれども決してなくなる事は無いのだろうと、そう思った。
 人形の両腕は天井へと向けて、掲げられていた。開かれた右手の上には、古ぼけた砂時計。紅い砂が止め処無く落ち続けていた。開かれた左手の上、其処には一つの生首が置かれていた。長い、紅緋の髪。目を閉じたきりの顔を、アリスは知っていた。確か、この図書館に住まう、魔女の使い魔。名前は、一度も聞いた事はなかったが、存在だけは。
 
(pp.20-21)
 

 

 
 
 
 
 このあたりはずいぶん絵画的な描写がされている部分だろう。描かれているイメージは掛け値なしに、ある種の美しさ――それは通常の生活では触れることのできないグロさ、鮮烈さ、異質さからきている――をたたえている。個人的にはこういう耽美なイメージの書きっぷりが好きなんだが、つづいてもうひとつ引用してみよう。
 
 
 
 
 詩人は嘗て、ある種の黴が自らの皮膚を食い荒らす、其の痛みを阿片の酩酊に溶かしながら、こう歌っていた。
 僕は、黴について考える。
 黴達もまた、僕について考えているだろう。
 僕の顔の半分を覆う、彼ら。
 胎動の度に、僕の精神は引き裂かれていく。僕の血がインクに変わってしまっている。何に於いても、避けるべき事だった。
 其の時に、詩人は思う。
 僕達は神について考える。
 神も僕達について考える。
 けれど、神は決して、僕達の為に何かを考えることは無いのだろう。
 魔女は水煙草の吸口を唇から離して、緩やかに青白い煙を吐いた。尚もゆると流れ出る煙。水煙草、其の細長い装置の上にある台には砂時計にも似た形の瓶が置かれていた。
 中で茶褐色の粘ついた塊が、青白い炎に巻かれながら、其の身を削っていく。
 煙の雫が落ちていく。
 装置の下側。真球にも見える硝子の水槽。
 水が半分まで満たされた底。残りの半分には青白い煙で満たされていた。
 誰もいない部屋。
 ベッドが一つ、机が一つ、安楽椅子が一つ。
 そして、水煙草の横には背の低い小さな丸テーブルが一つ。上に乗せられた皿、棗が二粒、氷砂糖が三つ、干した無花果が一つ。
 金の吸口を唇に宛てがう。
「私達が存在している、と云った類の辛い考察なのだけれども、其れは煙草の煙によく似ている。そう、魂とは測気管を漏れる一種の瓦斯であると言えるのかもしれない。私達は死に続ける。私の腕が、私の腹が、私の足が、私の舌先が、私のセクスが、私の瞳が、私の髪が、私の、私であるが故の私自身全てが、やがて解体すべき肉体の全ての部分が、泣いたり、身悶えたり、跪いたりしていく。死にゆく他人を、肉体的な兄弟たちを、哀れんでいる。けれどね、私の魂は、未だ囚われ続ける私の魂は、死によって解体されていく他人を見つめて、心の底から羨んでいるの。そう、心の底から」
 けはりと吐きつけた煙は、蝸牛の螺旋を描いていく。
 其れは生命の跳躍である。
 螺旋を描き、ステージを移行していく、ある種の清々しさを持った跳躍。其れが魔女の唇から、窓を欠いた部屋の天井へと向けて抜けていく。
 行き着く先は唯の天井。
 扉も固く閉ざされて、何処へも行けはしない。孵化を忘れた鳥が、虚しく吐いた息は、破られざる卵の殻に阻まれて、滞っていく。生きながらに茹でられた子供達は、唯、単に凝華していく。
 存在が、固着していく。
 其れは、糜爛によく似ている。
「何の話かしら、パチェ」
「死の話よ、レミィ」
 
(pp.134-135)
 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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 この文章を一読して、「うん、そうだよね! わかるわかる! 私もそう思ってた!」とか言い出す奴は、まあ、いないだろう。いたとしたら、ただのウケ狙いか、もしくは卑しい「わかり手」(わかってもないのに「わかった」と言うことで、自分は頭がいいとか、理解力があるとか、ある種のセンスがあるとかを他人に示そうとする人のこと。馬鹿)だろう。「死の話よ」と言われても、わからん。だいたい糜爛という漢字すら読めない(びらん、です。調べました)。
 
 でも、それが、「わかる」ではなく、「おもしろい」という感想であるなら――確実に一定数の人間がそう思っている。そのおもしろさは文章の内容ではなく、ことばのリズム、いろんなイメージが結びつくその並べられ方、つながりかた、難しい漢字が持つ雰囲気、意味の曖昧性、二重性――ことばにしかできない、ことばそのもののおもしろさ――バージェスの言う、小説以外での形式では不可能なことへの試みがここにはある。
 海綿さんの小説を評価するのであれば、そういうことを考えないといけない。
 
 念のため。
 いままでの話は、いわゆる「悪文」や「きわもの」や、あるいは「実験小説」なるものを、それが実験的だから、という理由でほめていこう、ということではない。そういう評価軸があるということの提示と、意識的であるかどうかは別として、海綿さんの作品はそうした読まれ方をしている、という確認だ。
 そういう読まれ方をしているなら、その見方に沿った上での成功か失敗か、という評価が必要になる。『レギオンの肖像』がどの程度それに成功した小説であるのかは、読者諸氏の判断に任せたい。
 
 なお、悪口でもなく褒めるでもなく、海綿さんの文章について思うところを素直に書くと、多分に趣味的ながら、魅力のある文章だと思う――いっぺんにつづけて読むと、やっぱり胃もたれしちゃうけど。でもそれは日本語として悪文だとかいうことではなくて、難解さ――というよりは、これでもかとどんどこ差し挟まれる思わせぶりなフレーズによる、エヴァンゲリオン的な「明快でなさ」からきている。
 ただ、わからない、わからないばかりでもしかたがないので、わかることを書くと、たとえば『レギオンの肖像』の登場人物はパチェを筆頭にしてあきらかにメタな視点を持った存在として書かれている。いろんな記述がそれを示している。
 
 
 
「一件は遂行されなければならない。其れは虚無を開拓すること」
「そして、其れは、この世で最も無意味なことだ」
「男は其れでも夢想を繰り返す。少女が幸福に死ぬために。唯、其ればかりを行う為に。其れこそが一件なのだから。一件は遂行されなければならない。其れは虚無を開拓すること」
「私達は存在している。けれど、其れは私達の間で循環し続ける事でしかない。私達は行為を繰り返し、行為に意味と価値を与え、共と云う状態を造り上げる事で、単一ではなく集合体として存在を続ける」
「この物語よ」
「私はレギオン。肥大する自意識。私はレギオン、大勢であるが故に」 

 

 
 
 
 これらのフレーズはすべて、この小説自体を、ひいては東方二次創作自体を批評する記述だ。それが通奏低音のように小説の全体にわたって鳴り響き、この本に物語としてのまとまりを与えようとしている。
 
 だから、そこを重視する読み方も可能だし、そうした視点からのレビューもじゅうぶん有効だろう。けれど、今回は取り上げなかった。評者の読みではそこに力点が置かれているようにはあまり思えなかったし、やはりこの小説の主役は、海綿さんの文章そのものであると思うからだ。
 なのでその文章を楽しもう、というのがこのレビューの論旨だったわけだけども、どうだろうか。けっこう長くなってしまったし、このレビューが最後まで読まれているかどうか自信がない。『レギオンの肖像』レビューと言いながらほとんど(ぜんぜん)作品の内容に触れていないのがアレかなーと思うし、はっきりいうと評者は海綿さんの小説の「良い読者」であるとは言えない。そもそも三、四冊しか読んでないしね。
 それに海綿さんの読者はこういうことよりも、もっとなんというか、「詩的精神」みたいなものを大事にして読んでいるのではないか、ともなんとなく思っている……だからこのレビューは、海綿さんファンのみなさんからすると、ただ野暮なだけのものかもしれない。
 
 
 

*1:もちろんこの見方をあらゆる読者が共有しているわけではない。ウラジーミル・ナボコフは名著『ヨーロッパ文学講義』で、各種の小説をなるべく具体的に絵画的に図化して読むことを徹底しており、その対象の中にはジョイスの小説も含まれている。が、先に述べた通り、タイプ1とタイプ2の小説という分類はあくまで便宜的なもので、決してきれいに一線が引けるわけではない。